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黒い花束 [小さな話]
刑事が語ってくれた話である。
被害者は、三十二歳の男性だった。
指示を受け、アパートの前に遅れて到着したときは、すでに近所から野次馬が集まってきていて、ただならぬ雰囲気となっていた。夜の八時を少し回ったあたりだったので、自宅で寛いでいるのがパトカーのサイレンの物々しさにつられて出てきたのだろう。十一月の中旬は、夜になるともう寒さが滲みこんで来た。思いの外秋が短く、冬の足がはやかった。
現場はアパートの二階、道路側から一番奥の部屋。ドアが開いて、先に到着していた菊池刑事とはち合わせた。菊地刑事は白い手袋をした手を口元にかざし「メッタ刺し。」と声をひそめながら言って、脇を通り抜けて行った。
被害者は玄関を上がってすぐの所で、足先を外へ向け、大きな血溜まりの中、仰向けに倒れていた。グレーのトレーナーとジャージを着て、その首もとから、胸、腹、腿にいたるまで染みた血が乾き、黒ずんで見えた。投げ出された掌に裂けた傷口が見える。顔も相当刺されているらしい。近づいて見るには、入り口をふさいだ形の死体を回りこまなければならなかった。もう固まっているようだったが、血溜まりに足を踏み入れないようにするのに苦労した。頭の横にしゃがみ込んで、大小の顔の傷を見ていると、被害者の側をかすめて点々と続く血の跡があり、ひとつはリビングの中へ入っていっていた。風呂場らしきドアの近くにも跡がある。もちろん鑑識は見逃していない。犯人は被害者を刺した凶器を提げて、血を滴らせながら部屋の中を歩き回ったのだろうか。血まみれの体をまたがないと奥へはいけなかったろう。その時、被害者にまだ息はあったかどうか。そう思って膝先の男の顔を見た。開かれたままの瞳に白熱灯の光が淀んでいる。死体を見直すこんな瞬間が一番恐い。死が悪意の顔をして、己の背後に立っているような気がするのだった。
立ち上がってリビングの中へ入ると、所轄署の刑事がいた。部屋の真中でこちらに背を向けて立っていた。声をかけると振り向いて、ボールペンを握った手を上げた。その刑事からまず話を聞いた。
被害者の身元はすぐに確認された。名前を後藤瞭といい、殺害現場であった渋谷パレス二〇四号室の借主である。上野の事務機器販売会社に勤める会社員で、独身。鋭利な刃物で体の前面を執拗に刺されており、その傷に因る失血死とみられる。これは後の鑑識の報告で確認された。鑑識は刺創を三十二箇所数えており、死亡推定時刻を前日、十一月十六日の午後七時から九時の間とした。
第一発見者は、後藤と交際している古田美由だ。後藤から連絡がなく、会社にも出勤していないのを知って部屋を訪ね、倒れている後藤を発見し、通報した。古田は、後藤の部屋の合鍵を持っていたのでドアを開けることができた。つまり、古田が到着したときには、二〇四号室の鍵がかかっていたことになる。
一般的に「メッタ刺し」には強い殺意が見られる。捜査は、怨恨による殺害を軸にして始まった。
まず、被害者の殺害当日の行動をつかむこと。近隣への聞き込みも同時に行われた。並行して、後藤の交友関係の洗い出し。もちろんその中心となるのは、古田美由に対しての聞き込みであった。
古田は取り乱し、怯えていた。身を保てない弱さを感じさせる女だった。泣き腫らした目をし、睡眠不足が浮いて、肌の色を黄色っぽくしていた。
年齢は二十七歳。後藤と交際をはじめて三年になる。付き合いだしたきっかけは、古田が勤める衣料卸会社に後藤の大学時代の同級生がいて、その人物の紹介であると言う。
古田も一人暮らしだが、一年ほど前から土日は後藤のところで過ごすことが多くなっていた。部屋の合鍵は後藤から渡された。後藤が仕事で遅くなる時は、合鍵で部屋にあがり、食事の準備などをして帰りを待つのだ。古田の住まいは、隣の駅である秋津から五分ほどの賃貸マンションで、後藤の住む清瀬へは会社からの帰りに途中下車すれば良いことになる。
事件当日の行動については、こう語った。
「その日は、いつも通りに会社を出て、三原あかりさんと映画へ行ったんです。」
「三原さんというのは?」
「会社の先輩です。」
「会社を出たのは何時でしたかね。」
「六時でした。タイムカードを押してから、更衣室で三原さんを待ってて、出るときもう一度時計を見て、その時六時でした。」
鼻をすする音が混じり、語尾がはっきりしないので、とても聞きづらかった。勢いこちらの声が大きくなってしまう。その度に古田は肩をびくっと動かした。
「どこの映画館ですか?」
「豊島園の。」
古田と三原の二人は、十八時四十分頃豊島園駅につき、マクドナルドでハンバーガーを購入。十九時十五分には、豊島園駅すぐそばのユナイテッドシネマとしまえんの座席についていた。映画は約二時間で、映画館を出たのが二十一時三十分頃。三原あかりの住まいの最寄り駅である大泉学園駅まで一緒に電車に乗り、その後は一人で帰った。駅からマンションまで寄り道はしていない。
「家に帰ってから彼にメールをしたんですけど、返事がなくて。十一時頃に電話してみました。でも、やっぱり出ないので変だなあと思いました。」
「変だと思った?」
「携帯なんで、いつもすぐでるんです。でも、ずっと呼び出してるのにでなかった。電源を切ってるわけじゃないようだから、おかしいって。」
その時、被害者の携帯がどうなっていたか確認していないのを思い出した。
「古田さんが三原さんと映画へ行くのを後藤さんは知ってましたかね?」
「映画に行くとは言ってありました。友達と行くと言いましたけど。三原さんのことは、彼は知らないから。」
「で、後藤さんが電話に出ないので、心配になって翌日、後藤さんの会社に電話したんですね。」
「はい。」
「誰と話したか覚えてますか。」
「上司の方だったと思います。連絡もなく、会社に来ていないと言われました。」
「後藤さんの部屋に行ったのは何時頃ですか?」
「七時過ぎだと思います。」
「会社から?」
「はい。」
「で、合鍵を使って入った?」
「はい。インターホンを押しても返事がないので。」
ドアを開けたときの光景を思い出したのか、古田の顔が沈んだ。
「大変でしたね。ところで後藤さんなんですけどね。誰かに恨まれるようなことはなかったですかね?」
「さあ…。そういう人じゃないと思いますけど。」
「人間関係のトラブルとかを聞いたことはないですか?」
「いいえ。ありません。」
「古田さんは後藤さんと結婚の話とかしてましたか?」
「…何度か。」古田の視線が宙をさまよった。
古田と話した後は、なにかひっかかるものがあった。恋人の無残な姿を目の当たりにした女性としては、古田の様子は受け入れやすいものだった。とにかく酷いショックを受けているのが見て取れた。起こったことをまだ完全には飲み込めていず、呆然としている。なのだが、その目にはこちらが思っている以上の恐怖が浮かんでいるように見えた。
次に、一緒に映画を観ていたという三原あかりに会うことにした。古田と三原が勤める衣料卸会社は馬喰町にあった。古田が会社を休んでいるのを確認して、話を聞かせてくれと三原を訪ねた。
通された応接は、フロアの一角を衝立で囲っただけのもので、話す内容が他の社員に聞こえてしまうのではないかと気になった。そこへ三原が現れた。背格好が古田と同じくらいだ。派手ではないが、化粧に隙がない。目をわずかに細めて、相手を見据える。紺のカーディガンの下は、グレーのベスト、青いストライプのシャツを着ていた。スカートはベストと揃いのボックススカートだ。シャツ以外は他の女子社員も同じだったので会社の制服なのだろう。姓名と三十一歳という年齢、住居を確認した。
「古田美由さんとはお友達ですよね。」
「はい。古田さんが入社した時の教育係で、それがきっかけで友達になりました。」
「実は、古田さんのお友達の事件を捜査していまして。」
「知ってます。古田さん、可哀想。」
「十一月十六日の午後六時以降、何をされていたか聞かせてもらえませんかね。」
「はい。古田さんと映画を観ていました。」
三原の話は古田の話と食い違いを見せなかった。映画の後、大泉学園駅まで古田と一緒に電車で帰った。住んでいるマンションに帰りついたのは十時過ぎだった。これで被害者、その恋人、恋人の友人と一人暮らしが続いた。それほど珍しいことではないけれど、その時はなんとなく数え上げていた。
三原は協力的だった。ハキハキと受け答えた。その間、伸ばした背筋が揺るがない。
「古田さんと後藤さんの関係は、どうだったんでしょうね?」
「そうですねぇ、時々は喧嘩もしていたようですけれど、深刻な相談を受けたことはありません。仲は良かったのではないですか。他人には分からない部分もあるとは思いますけれど。」
「三原さんは、後藤さんに会ったことはない?」
「ええ。」
「後藤さんが殺害されていたことについては、誰から聞かれましたか?」
「いえ、テレビのニュースで知りました。まさかと思って、古田さんに電話して、それで。」
最後に三原はこう言った。
「私、本当に古田さんに同情しているんです。私にできることがあれば何でもしますので。」
古田と三原に会っている間に、近隣への聞き込みの結果と被害者の交友関係の情報があがってきた。
まず、アパートの住人。渋谷パレスは一年前にできたばかりのアパートだ。二階建て、部屋は全部で八つ。全部に入居者がいる。一階の一番手前、事件のあった二〇四号室から最も離れた部屋に年金暮らしの老夫婦がいるほかは、すべて若い勤め人の一人暮らしである。帰宅が遅くなる者が多く、事件当夜もほとんどがまだ会社にいた。後藤瞭が殺害された時間帯にアパートにいたのは、一〇一号室の老夫婦と、その上の部屋二〇一号室の住人だけだった。どちらも異変に気づいてはいなかった。
渋谷パレスの大家は敷地に隣り合って住んでいる。もとは農家だった地主で、趣味のようにしてやっていた菜園をつぶし、あとに渋谷パレスを建てた。後藤瞭とは契約の時に顔を合わせたぐらい。家賃は滞り無く振り込まれていた。大家は、まだ新しいアパートに起きた事件に困惑していた。
渋谷パレス近辺は、一戸建ての家が多い。申し訳程度の庭のついた分譲住宅も目につく。そのなかで聞き込まれた後藤瞭の姿は実にかすかなものだった。新しくできたアパートに最初に入居してきた人として、渋谷パレスの向かいの家の主婦が覚えていただけで、他は概ね、見かけた気がする程度の反応しかない。
アパートの住人間の認識も似たりよったりだ。真下の一〇四号室の住人も、存在を意識するぐらいだったと語った。古田美由が土日に泊まりに来ていたことも知られていなかった。
渋谷パレス近辺と駅までの間で不審者の情報は皆無だった。清瀬駅と駅前のコンビニからも防犯カメラのビデオが参考資料として借り受けてあった。が、コンビニの店員は当夜の客について知っている顔ばかりだったと言っており、あまり期待は出来なさそうだった。
次は、被害者の交友関係だった。後藤の交友は、会社の人間関係が中心となっていた。
後藤が勤めていた会社は、コピーやファックスなどを主力とする大手メーカーの販売代理店である。社員二百名を抱えて、中堅会社と呼ばれる規模だ。後藤はそこの総務部に所属していた。勤務態度は平均的だったと後藤の上司が語った。
職場の同僚で親密に交流があったのが二人。他の部署に二人、入社が同期で仲が良かった者たちがいて、これらと後藤を含めた五人でグループとなり、仕事が終わってからしばしば飲みに行ったという。
この会社の友人に、古田との交際のきっかけを作った人物ともう一名の大学時代からの友人を加えると、後藤の交友関係の図はほぼ完成する。
これらの友人たちの間から、ようやく後藤瞭の手触りのある姿が浮かび上がってきた。
総務部の同僚であり、後藤と席を並べて仕事をしている矢島哲也は、こう語った。
「真面目といえば真面目なんでしょうけど、そう言うより頑固というほうが近いかなぁ。」矢島は椅子に腰掛けると盛り上がった肉の塊のように見えた。
「社内でトラブルとかありましたか。」
「いや、そりゃあね。いろいろ毎日ありますけど、仕事の上のことで片が付いていましたよ。後藤くんはさぁ、融通が効かないところもあったから。なんか、他の部署の人と衝突しちゃうんだよね。」
「恨まれるようなことは。」
「そこまではないですよ。小さいことなんだもの。ぶつかると言っても。提出した書類の書き込みが足りないから受け付けないとか、ね。でも、それだけですよ。『あいつめ』と思っても、仕事の上のことだけで終わりでしたよ。」
「借金をしているとか言う話はなかったですか?」
「後藤くんがですか?いや、ないなぁ。彼、無趣味だからね。ギャンブルもやらないし。お金に困ってるということはないと思うなぁ。」
「女性関係はどうです?」
「彼女、いましたよね?古田さん。他には聞いたことないです。あの人、後藤の第一発見者だったじゃないですか。ショックですよね。」
「古田さんに会われたことは?」
「ありますよ。一度僕達の飲み会に後藤くんが連れてきたことがあって。可愛らしい人ですよね。」
矢島はそう言うと笑った。細くなった目が顔の肉の中に埋まりそうだった。
矢島は、事件当日に後藤がいつも通り午後六時には会社を出たことを証言した。後藤のパスモの記録から、清瀬駅の改札を出たのが十九時十三分。その後、駅前のコンビニ、ファミリーマートで弁当を買っている。その時のレシートが後藤の部屋のゴミ箱から出てきた。また、コンビニの防犯カメラにも後藤が写っていた。
後藤の友人の間からは、人間関係のトラブルの話は出てこない。借金の話もない。怨恨へと結びつく線は見えないままだった。
しかし、他の部署の友人、大木伸彦からおかしな話が出てきた。なにやら半笑いを浮かべて大木はこう言った。
「そう言えば、後藤くん、変な間違い電話のことを言ってましたね。」
「間違い電話?」
「ええ。一週間ぐらい前だっけ。変な間違い電話がかかってきたと相談されまして。」
「どんな電話ですか?」
「女の人だそうなんですけど。自分のことを愛しているなら、明日の七時に錦糸町の駅前に来てくれと言ったんですって。それから、来なければ自殺すると言ったそうです。」
「それが間違いだというのは?」
「誰からの電話か、見当がつかなかい、と。声が低くて、気味が悪い感じだったと言ってました。」
「後藤さんが大木さんに相談されたんですね。」
「ええ。どうしようか、と。錦糸町へ行ったほうがいいだろうか、と相談されました。やめとけと言いました。」
「後藤さんは錦糸町へ行ったんでしょうか。」
「いや、行かなかったみたいですよ。」
「それはいつ頃のことかおぼえてますか。」
「えっと、あの日の前の週のことだったと思います。八日じゃないでしょうか。」
「電話は何時頃にかかってきたんですかね?」
「夜遅くだと言ってましたよ。十一時過ぎだとか。これ、続きがあるんです。」
「続きとは?」
「ええ。次の日に、何故昨日は来なかったかと怒りの電話がかかってきたそうです。同じくらいの時間に。さんざん一方的に詰って、恨みを言って切れた、と言ってました。それから四、五日続いたみたいです。呪ってやるとか言われたそうです。後藤くん、まいってました。」
「いたずらではなく、あくまでも間違い電話だと?」
「あ、そうか。いたずらかもしれないのか。後藤くんが間違いだと言ってたので間違い電話だと思ってました。事件と関係がありそうですか?」
「いえいえ、まだ何も分かりませんけれど。間違い電話なら、間違いだと言ってやれば収まりそうなものですよね。」
「そうですね。後藤くんも間違いだと相手に言ったようでしたけど。」
「その電話は、四、五日続いて終わったんですかね?」
「ええ。急にかかってこなくなったと言ってました。」
古田から間違い電話のことなどひと言も出てこなかったことを思い出した。
「後藤さんがその電話のことを相談したのは、大木さんにだけですかね。」
「ふん。どうかな。矢島くんは何か言ってましたか?」
「矢島さんは何も。」
「じゃあ、僕だけかも知れない。」大木の半笑いが急に消えた。あとを薄墨色に停滞した表情が広がっていった。同僚の死のショックから半笑いで自分を守っていたのが、力尽きたようだった。
「僕だけ知らされていたとしたら、嫌だな。」大木はぼそぼそと呟いた。
大木を帰して、もう一度矢島を呼んでもらった。矢島は最初の落ち着いた様子を失っていた。聞き忘れたことがあるからと宥めたが、こちらの真意をはかりかねて不機嫌になっていた。怯えが蹲っている矢島の感情こそ、後藤の友人たちの偽らざる空気だろうと思えた。矢島は、大木が証言した間違い電話を知らなかった。やはり後藤が相談したのは大木だけのようだった。
大木が話した間違い電話をはっきりさせることにした。
鑑識に被害者の携帯電話について問い合わせた。携帯電話は、着信履歴、発信履歴、電子メール、ショートメッセージなどが諸々消去されていた。わずかに、殺害後に着信したと思われる電話と電子メールが残るのみだった。どれも古田美由からのものだ。映画を見た後、後藤にメールを送ったが返事がなく、電話をしたが出なかったという古田の話を裏付けている。ここで履歴関係が消されていることは見過ごせない。犯人はなぜそこまでしたのか。「自分」の「痕跡」を消そうとしたのだ。携帯電話に残されていた「痕跡」がその犯人に繋がっていることになる。通話記録をキャリアに照会するよう指示を出した。
鑑識の担当者は、携帯電話の指紋が拭い取られていることを教えてくれた。そのついでに、現場から指紋が発見されなかったことも告げてきた。
犯人は用意周到だ。強い殺意と殺害後の冷静さ。
部屋の中を点々と歩きまわっていた血痕を思い出した。凶器を手にしたまま、犯人は部屋で何をしたのだろう。指紋を拭き取るほどの落ち着きを見せる人間が、その冷たい眼差しで何を見たのか。
殺害現場に戻り、確かめることにした。
アパートへは一人で行った。いつものやり方でやりたかったのだ。なるべく雑音を絶って、自分の感覚に集中する。人が殺されたその場所に、それを見ていた物たちに心を開くつもりでやる。運が良ければ、見えてくるものがあるだろう。しかし、うまくいくとは思っていない。ついていないことのほうが多いのだが、それでも自分の考えに集中することで、その後の捜査の進むべき道がしっかりと心のなかに落ち着く。
後藤瞭の事件で組んだ刑事は、こちらのやり方を知っている人間で、好きにさせてくれていた。
二〇四号室のドアを開けると、黄色いテープが貼ってあった。それをくぐって中に入り、後藤の死体があった場所、死体の足元あたりに立った。
すぐ右手に部屋がある。血の跡はこの部屋には入っていない。開けると寝室で、入った右奥の壁に寄せてベッドがおいてある。カーテンが閉めきってあり、暗い。ベッドの上は、十六日の朝、後藤が起きたままになっているのだろう。乱れた布団が人の背中のように盛り上がっていた。左手はクローゼットになっている。部屋の電灯をつけて、クローゼットを開けてみる。背広が数着。他にはジャケットやシャツ、ズボンなどが下げられていた。背広の上着のポケットを探ってみたが何もない。クローゼットには二段二列の引き出しが据え付けてあった。すべて開けてみる。下着やシャツが整理されてしまってあるだけだ。
もっぱら寝るだけの部屋らしい。気にかかるようなものは何もなかった。
その部屋を出ると、奥のリビングに入った。正確にはLDKだ。十畳ほどの広さで、中央に折り畳み式の間仕切りが付いている。間仕切りは畳み込んであった。そこを境に左側がダイニングキッチンだ。シンクとガスレンジがあり、冷蔵庫、テーブルが置いてある。右側にはフロアソファとリビングテーブル、大型の液晶テレビが目に付いた。リビングテーブルの上にノートパソコンがあったはずだが、鑑識が持っていったようだ。独身の会社員としては、なかなかに余裕のある住まいではないか。
血痕はこの部屋に入ってきてすぐに途切れ途切れとなり、部屋の中をどのように動き回ったかまでは教えてくれなかった。
まずはキッチンの方から、順に見て回る。棚の戸、引き出しはひとつ残らず開けた。シンクの下にある戸の内側には、包丁が一本だけ差してあった。鑑識では殺害に使われた凶器は大型のナイフではないかと見ている。おそらく犯人が持ってきたものに違いない。冷蔵庫も開けてみた。ペットボトルが四本、横倒しに入れてある。ミネラルウォーターだ。キッチン全体が乾いた感じで、汚れが少ない。ガスレンジの上の換気扇にも汚れがついていない。料理することが少なかったのだろう。古田が泊まりに来ても、コンビニの弁当などで済ましていたのか。冷蔵庫の脇のゴミ箱を覗くと、紙くずばかりだった。やはりコンビニのレシートが目に付く。
次にリビングへ移った。リビングデーブルの下に、雑誌がきれいに揃えて積んである。が、新聞は見当たらない。インターネットのニュースサイトで間に合わせているということもある。雑誌は、下から順に新しくなっている。この部屋に入った時からつきまとっていた直線的な感触が、雑誌の縁の線に重なった。几帳面の印象が強まる。掃除もまめにやったに違いない。というより、散らかさないように気を使った方だろうか。矢島哲也はこの部屋の主を「無趣味」と評したが、彼は、このリビングをある一定の状態に保つことに執着していたのではないかと思えてきた。土日に古田が泊まっていっていたというのは本当なのか、と疑問が湧く。
しかし、その疑問は洗面所に入って消えた。ドアの前に血の跡があって、ここへも犯人が足を踏み入れたことが分かる。洗面所は入ると洗濯機が置いてあり、左手が浴室になっていた。洗濯機の隣の洗面台に、ピンク色の柄の歯ブラシが一本、コップに入れてあった。それが古田の歯ブラシなら、後藤の所で週末を過ごしていたという話は嘘ではない。洗面台の上の鏡は、薬棚の戸になっていた。開けてみると、洗剤、コロン、整髪料などがきれいに並べて収納されている。ケースに入ったままの歯ブラシが二本あった。買い置きしていたのだ。一本はピンク色の柄で、もう一本は緑の柄。
部屋を出るとき三和土に立って、死体の様子を思い出してみた。
後藤瞭は、その時恐らくリビングにいた。インターホンに呼び出されてドアの前に来る。覗き穴から訪れた人間を確認してドアを開ける。来訪者は招じ入れられ、ドアを閉めると後藤と正対し、持ってきた凶器で後藤を刺した。何度も執拗に、恐るべき力で。後藤が倒れて虫の息になると、凶器を持ったままリビングに入り、中をうろついてから洗面所へ向かった。その後、部屋を出て鍵を閉め、闇の奥へ去る。後藤の鍵は部屋の中で発見されているので、犯人が使ったのは合鍵ということになる。
何も収穫がないまま、部屋を後にした。しかし、今見てきた部屋の様子の底で何かがこちらに合図を送ってきているような気がしていた。
被害者は、三十二歳の男性だった。
指示を受け、アパートの前に遅れて到着したときは、すでに近所から野次馬が集まってきていて、ただならぬ雰囲気となっていた。夜の八時を少し回ったあたりだったので、自宅で寛いでいるのがパトカーのサイレンの物々しさにつられて出てきたのだろう。十一月の中旬は、夜になるともう寒さが滲みこんで来た。思いの外秋が短く、冬の足がはやかった。
現場はアパートの二階、道路側から一番奥の部屋。ドアが開いて、先に到着していた菊池刑事とはち合わせた。菊地刑事は白い手袋をした手を口元にかざし「メッタ刺し。」と声をひそめながら言って、脇を通り抜けて行った。
被害者は玄関を上がってすぐの所で、足先を外へ向け、大きな血溜まりの中、仰向けに倒れていた。グレーのトレーナーとジャージを着て、その首もとから、胸、腹、腿にいたるまで染みた血が乾き、黒ずんで見えた。投げ出された掌に裂けた傷口が見える。顔も相当刺されているらしい。近づいて見るには、入り口をふさいだ形の死体を回りこまなければならなかった。もう固まっているようだったが、血溜まりに足を踏み入れないようにするのに苦労した。頭の横にしゃがみ込んで、大小の顔の傷を見ていると、被害者の側をかすめて点々と続く血の跡があり、ひとつはリビングの中へ入っていっていた。風呂場らしきドアの近くにも跡がある。もちろん鑑識は見逃していない。犯人は被害者を刺した凶器を提げて、血を滴らせながら部屋の中を歩き回ったのだろうか。血まみれの体をまたがないと奥へはいけなかったろう。その時、被害者にまだ息はあったかどうか。そう思って膝先の男の顔を見た。開かれたままの瞳に白熱灯の光が淀んでいる。死体を見直すこんな瞬間が一番恐い。死が悪意の顔をして、己の背後に立っているような気がするのだった。
立ち上がってリビングの中へ入ると、所轄署の刑事がいた。部屋の真中でこちらに背を向けて立っていた。声をかけると振り向いて、ボールペンを握った手を上げた。その刑事からまず話を聞いた。
被害者の身元はすぐに確認された。名前を後藤瞭といい、殺害現場であった渋谷パレス二〇四号室の借主である。上野の事務機器販売会社に勤める会社員で、独身。鋭利な刃物で体の前面を執拗に刺されており、その傷に因る失血死とみられる。これは後の鑑識の報告で確認された。鑑識は刺創を三十二箇所数えており、死亡推定時刻を前日、十一月十六日の午後七時から九時の間とした。
第一発見者は、後藤と交際している古田美由だ。後藤から連絡がなく、会社にも出勤していないのを知って部屋を訪ね、倒れている後藤を発見し、通報した。古田は、後藤の部屋の合鍵を持っていたのでドアを開けることができた。つまり、古田が到着したときには、二〇四号室の鍵がかかっていたことになる。
一般的に「メッタ刺し」には強い殺意が見られる。捜査は、怨恨による殺害を軸にして始まった。
まず、被害者の殺害当日の行動をつかむこと。近隣への聞き込みも同時に行われた。並行して、後藤の交友関係の洗い出し。もちろんその中心となるのは、古田美由に対しての聞き込みであった。
古田は取り乱し、怯えていた。身を保てない弱さを感じさせる女だった。泣き腫らした目をし、睡眠不足が浮いて、肌の色を黄色っぽくしていた。
年齢は二十七歳。後藤と交際をはじめて三年になる。付き合いだしたきっかけは、古田が勤める衣料卸会社に後藤の大学時代の同級生がいて、その人物の紹介であると言う。
古田も一人暮らしだが、一年ほど前から土日は後藤のところで過ごすことが多くなっていた。部屋の合鍵は後藤から渡された。後藤が仕事で遅くなる時は、合鍵で部屋にあがり、食事の準備などをして帰りを待つのだ。古田の住まいは、隣の駅である秋津から五分ほどの賃貸マンションで、後藤の住む清瀬へは会社からの帰りに途中下車すれば良いことになる。
事件当日の行動については、こう語った。
「その日は、いつも通りに会社を出て、三原あかりさんと映画へ行ったんです。」
「三原さんというのは?」
「会社の先輩です。」
「会社を出たのは何時でしたかね。」
「六時でした。タイムカードを押してから、更衣室で三原さんを待ってて、出るときもう一度時計を見て、その時六時でした。」
鼻をすする音が混じり、語尾がはっきりしないので、とても聞きづらかった。勢いこちらの声が大きくなってしまう。その度に古田は肩をびくっと動かした。
「どこの映画館ですか?」
「豊島園の。」
古田と三原の二人は、十八時四十分頃豊島園駅につき、マクドナルドでハンバーガーを購入。十九時十五分には、豊島園駅すぐそばのユナイテッドシネマとしまえんの座席についていた。映画は約二時間で、映画館を出たのが二十一時三十分頃。三原あかりの住まいの最寄り駅である大泉学園駅まで一緒に電車に乗り、その後は一人で帰った。駅からマンションまで寄り道はしていない。
「家に帰ってから彼にメールをしたんですけど、返事がなくて。十一時頃に電話してみました。でも、やっぱり出ないので変だなあと思いました。」
「変だと思った?」
「携帯なんで、いつもすぐでるんです。でも、ずっと呼び出してるのにでなかった。電源を切ってるわけじゃないようだから、おかしいって。」
その時、被害者の携帯がどうなっていたか確認していないのを思い出した。
「古田さんが三原さんと映画へ行くのを後藤さんは知ってましたかね?」
「映画に行くとは言ってありました。友達と行くと言いましたけど。三原さんのことは、彼は知らないから。」
「で、後藤さんが電話に出ないので、心配になって翌日、後藤さんの会社に電話したんですね。」
「はい。」
「誰と話したか覚えてますか。」
「上司の方だったと思います。連絡もなく、会社に来ていないと言われました。」
「後藤さんの部屋に行ったのは何時頃ですか?」
「七時過ぎだと思います。」
「会社から?」
「はい。」
「で、合鍵を使って入った?」
「はい。インターホンを押しても返事がないので。」
ドアを開けたときの光景を思い出したのか、古田の顔が沈んだ。
「大変でしたね。ところで後藤さんなんですけどね。誰かに恨まれるようなことはなかったですかね?」
「さあ…。そういう人じゃないと思いますけど。」
「人間関係のトラブルとかを聞いたことはないですか?」
「いいえ。ありません。」
「古田さんは後藤さんと結婚の話とかしてましたか?」
「…何度か。」古田の視線が宙をさまよった。
古田と話した後は、なにかひっかかるものがあった。恋人の無残な姿を目の当たりにした女性としては、古田の様子は受け入れやすいものだった。とにかく酷いショックを受けているのが見て取れた。起こったことをまだ完全には飲み込めていず、呆然としている。なのだが、その目にはこちらが思っている以上の恐怖が浮かんでいるように見えた。
次に、一緒に映画を観ていたという三原あかりに会うことにした。古田と三原が勤める衣料卸会社は馬喰町にあった。古田が会社を休んでいるのを確認して、話を聞かせてくれと三原を訪ねた。
通された応接は、フロアの一角を衝立で囲っただけのもので、話す内容が他の社員に聞こえてしまうのではないかと気になった。そこへ三原が現れた。背格好が古田と同じくらいだ。派手ではないが、化粧に隙がない。目をわずかに細めて、相手を見据える。紺のカーディガンの下は、グレーのベスト、青いストライプのシャツを着ていた。スカートはベストと揃いのボックススカートだ。シャツ以外は他の女子社員も同じだったので会社の制服なのだろう。姓名と三十一歳という年齢、住居を確認した。
「古田美由さんとはお友達ですよね。」
「はい。古田さんが入社した時の教育係で、それがきっかけで友達になりました。」
「実は、古田さんのお友達の事件を捜査していまして。」
「知ってます。古田さん、可哀想。」
「十一月十六日の午後六時以降、何をされていたか聞かせてもらえませんかね。」
「はい。古田さんと映画を観ていました。」
三原の話は古田の話と食い違いを見せなかった。映画の後、大泉学園駅まで古田と一緒に電車で帰った。住んでいるマンションに帰りついたのは十時過ぎだった。これで被害者、その恋人、恋人の友人と一人暮らしが続いた。それほど珍しいことではないけれど、その時はなんとなく数え上げていた。
三原は協力的だった。ハキハキと受け答えた。その間、伸ばした背筋が揺るがない。
「古田さんと後藤さんの関係は、どうだったんでしょうね?」
「そうですねぇ、時々は喧嘩もしていたようですけれど、深刻な相談を受けたことはありません。仲は良かったのではないですか。他人には分からない部分もあるとは思いますけれど。」
「三原さんは、後藤さんに会ったことはない?」
「ええ。」
「後藤さんが殺害されていたことについては、誰から聞かれましたか?」
「いえ、テレビのニュースで知りました。まさかと思って、古田さんに電話して、それで。」
最後に三原はこう言った。
「私、本当に古田さんに同情しているんです。私にできることがあれば何でもしますので。」
古田と三原に会っている間に、近隣への聞き込みの結果と被害者の交友関係の情報があがってきた。
まず、アパートの住人。渋谷パレスは一年前にできたばかりのアパートだ。二階建て、部屋は全部で八つ。全部に入居者がいる。一階の一番手前、事件のあった二〇四号室から最も離れた部屋に年金暮らしの老夫婦がいるほかは、すべて若い勤め人の一人暮らしである。帰宅が遅くなる者が多く、事件当夜もほとんどがまだ会社にいた。後藤瞭が殺害された時間帯にアパートにいたのは、一〇一号室の老夫婦と、その上の部屋二〇一号室の住人だけだった。どちらも異変に気づいてはいなかった。
渋谷パレスの大家は敷地に隣り合って住んでいる。もとは農家だった地主で、趣味のようにしてやっていた菜園をつぶし、あとに渋谷パレスを建てた。後藤瞭とは契約の時に顔を合わせたぐらい。家賃は滞り無く振り込まれていた。大家は、まだ新しいアパートに起きた事件に困惑していた。
渋谷パレス近辺は、一戸建ての家が多い。申し訳程度の庭のついた分譲住宅も目につく。そのなかで聞き込まれた後藤瞭の姿は実にかすかなものだった。新しくできたアパートに最初に入居してきた人として、渋谷パレスの向かいの家の主婦が覚えていただけで、他は概ね、見かけた気がする程度の反応しかない。
アパートの住人間の認識も似たりよったりだ。真下の一〇四号室の住人も、存在を意識するぐらいだったと語った。古田美由が土日に泊まりに来ていたことも知られていなかった。
渋谷パレス近辺と駅までの間で不審者の情報は皆無だった。清瀬駅と駅前のコンビニからも防犯カメラのビデオが参考資料として借り受けてあった。が、コンビニの店員は当夜の客について知っている顔ばかりだったと言っており、あまり期待は出来なさそうだった。
次は、被害者の交友関係だった。後藤の交友は、会社の人間関係が中心となっていた。
後藤が勤めていた会社は、コピーやファックスなどを主力とする大手メーカーの販売代理店である。社員二百名を抱えて、中堅会社と呼ばれる規模だ。後藤はそこの総務部に所属していた。勤務態度は平均的だったと後藤の上司が語った。
職場の同僚で親密に交流があったのが二人。他の部署に二人、入社が同期で仲が良かった者たちがいて、これらと後藤を含めた五人でグループとなり、仕事が終わってからしばしば飲みに行ったという。
この会社の友人に、古田との交際のきっかけを作った人物ともう一名の大学時代からの友人を加えると、後藤の交友関係の図はほぼ完成する。
これらの友人たちの間から、ようやく後藤瞭の手触りのある姿が浮かび上がってきた。
総務部の同僚であり、後藤と席を並べて仕事をしている矢島哲也は、こう語った。
「真面目といえば真面目なんでしょうけど、そう言うより頑固というほうが近いかなぁ。」矢島は椅子に腰掛けると盛り上がった肉の塊のように見えた。
「社内でトラブルとかありましたか。」
「いや、そりゃあね。いろいろ毎日ありますけど、仕事の上のことで片が付いていましたよ。後藤くんはさぁ、融通が効かないところもあったから。なんか、他の部署の人と衝突しちゃうんだよね。」
「恨まれるようなことは。」
「そこまではないですよ。小さいことなんだもの。ぶつかると言っても。提出した書類の書き込みが足りないから受け付けないとか、ね。でも、それだけですよ。『あいつめ』と思っても、仕事の上のことだけで終わりでしたよ。」
「借金をしているとか言う話はなかったですか?」
「後藤くんがですか?いや、ないなぁ。彼、無趣味だからね。ギャンブルもやらないし。お金に困ってるということはないと思うなぁ。」
「女性関係はどうです?」
「彼女、いましたよね?古田さん。他には聞いたことないです。あの人、後藤の第一発見者だったじゃないですか。ショックですよね。」
「古田さんに会われたことは?」
「ありますよ。一度僕達の飲み会に後藤くんが連れてきたことがあって。可愛らしい人ですよね。」
矢島はそう言うと笑った。細くなった目が顔の肉の中に埋まりそうだった。
矢島は、事件当日に後藤がいつも通り午後六時には会社を出たことを証言した。後藤のパスモの記録から、清瀬駅の改札を出たのが十九時十三分。その後、駅前のコンビニ、ファミリーマートで弁当を買っている。その時のレシートが後藤の部屋のゴミ箱から出てきた。また、コンビニの防犯カメラにも後藤が写っていた。
後藤の友人の間からは、人間関係のトラブルの話は出てこない。借金の話もない。怨恨へと結びつく線は見えないままだった。
しかし、他の部署の友人、大木伸彦からおかしな話が出てきた。なにやら半笑いを浮かべて大木はこう言った。
「そう言えば、後藤くん、変な間違い電話のことを言ってましたね。」
「間違い電話?」
「ええ。一週間ぐらい前だっけ。変な間違い電話がかかってきたと相談されまして。」
「どんな電話ですか?」
「女の人だそうなんですけど。自分のことを愛しているなら、明日の七時に錦糸町の駅前に来てくれと言ったんですって。それから、来なければ自殺すると言ったそうです。」
「それが間違いだというのは?」
「誰からの電話か、見当がつかなかい、と。声が低くて、気味が悪い感じだったと言ってました。」
「後藤さんが大木さんに相談されたんですね。」
「ええ。どうしようか、と。錦糸町へ行ったほうがいいだろうか、と相談されました。やめとけと言いました。」
「後藤さんは錦糸町へ行ったんでしょうか。」
「いや、行かなかったみたいですよ。」
「それはいつ頃のことかおぼえてますか。」
「えっと、あの日の前の週のことだったと思います。八日じゃないでしょうか。」
「電話は何時頃にかかってきたんですかね?」
「夜遅くだと言ってましたよ。十一時過ぎだとか。これ、続きがあるんです。」
「続きとは?」
「ええ。次の日に、何故昨日は来なかったかと怒りの電話がかかってきたそうです。同じくらいの時間に。さんざん一方的に詰って、恨みを言って切れた、と言ってました。それから四、五日続いたみたいです。呪ってやるとか言われたそうです。後藤くん、まいってました。」
「いたずらではなく、あくまでも間違い電話だと?」
「あ、そうか。いたずらかもしれないのか。後藤くんが間違いだと言ってたので間違い電話だと思ってました。事件と関係がありそうですか?」
「いえいえ、まだ何も分かりませんけれど。間違い電話なら、間違いだと言ってやれば収まりそうなものですよね。」
「そうですね。後藤くんも間違いだと相手に言ったようでしたけど。」
「その電話は、四、五日続いて終わったんですかね?」
「ええ。急にかかってこなくなったと言ってました。」
古田から間違い電話のことなどひと言も出てこなかったことを思い出した。
「後藤さんがその電話のことを相談したのは、大木さんにだけですかね。」
「ふん。どうかな。矢島くんは何か言ってましたか?」
「矢島さんは何も。」
「じゃあ、僕だけかも知れない。」大木の半笑いが急に消えた。あとを薄墨色に停滞した表情が広がっていった。同僚の死のショックから半笑いで自分を守っていたのが、力尽きたようだった。
「僕だけ知らされていたとしたら、嫌だな。」大木はぼそぼそと呟いた。
大木を帰して、もう一度矢島を呼んでもらった。矢島は最初の落ち着いた様子を失っていた。聞き忘れたことがあるからと宥めたが、こちらの真意をはかりかねて不機嫌になっていた。怯えが蹲っている矢島の感情こそ、後藤の友人たちの偽らざる空気だろうと思えた。矢島は、大木が証言した間違い電話を知らなかった。やはり後藤が相談したのは大木だけのようだった。
大木が話した間違い電話をはっきりさせることにした。
鑑識に被害者の携帯電話について問い合わせた。携帯電話は、着信履歴、発信履歴、電子メール、ショートメッセージなどが諸々消去されていた。わずかに、殺害後に着信したと思われる電話と電子メールが残るのみだった。どれも古田美由からのものだ。映画を見た後、後藤にメールを送ったが返事がなく、電話をしたが出なかったという古田の話を裏付けている。ここで履歴関係が消されていることは見過ごせない。犯人はなぜそこまでしたのか。「自分」の「痕跡」を消そうとしたのだ。携帯電話に残されていた「痕跡」がその犯人に繋がっていることになる。通話記録をキャリアに照会するよう指示を出した。
鑑識の担当者は、携帯電話の指紋が拭い取られていることを教えてくれた。そのついでに、現場から指紋が発見されなかったことも告げてきた。
犯人は用意周到だ。強い殺意と殺害後の冷静さ。
部屋の中を点々と歩きまわっていた血痕を思い出した。凶器を手にしたまま、犯人は部屋で何をしたのだろう。指紋を拭き取るほどの落ち着きを見せる人間が、その冷たい眼差しで何を見たのか。
殺害現場に戻り、確かめることにした。
アパートへは一人で行った。いつものやり方でやりたかったのだ。なるべく雑音を絶って、自分の感覚に集中する。人が殺されたその場所に、それを見ていた物たちに心を開くつもりでやる。運が良ければ、見えてくるものがあるだろう。しかし、うまくいくとは思っていない。ついていないことのほうが多いのだが、それでも自分の考えに集中することで、その後の捜査の進むべき道がしっかりと心のなかに落ち着く。
後藤瞭の事件で組んだ刑事は、こちらのやり方を知っている人間で、好きにさせてくれていた。
二〇四号室のドアを開けると、黄色いテープが貼ってあった。それをくぐって中に入り、後藤の死体があった場所、死体の足元あたりに立った。
すぐ右手に部屋がある。血の跡はこの部屋には入っていない。開けると寝室で、入った右奥の壁に寄せてベッドがおいてある。カーテンが閉めきってあり、暗い。ベッドの上は、十六日の朝、後藤が起きたままになっているのだろう。乱れた布団が人の背中のように盛り上がっていた。左手はクローゼットになっている。部屋の電灯をつけて、クローゼットを開けてみる。背広が数着。他にはジャケットやシャツ、ズボンなどが下げられていた。背広の上着のポケットを探ってみたが何もない。クローゼットには二段二列の引き出しが据え付けてあった。すべて開けてみる。下着やシャツが整理されてしまってあるだけだ。
もっぱら寝るだけの部屋らしい。気にかかるようなものは何もなかった。
その部屋を出ると、奥のリビングに入った。正確にはLDKだ。十畳ほどの広さで、中央に折り畳み式の間仕切りが付いている。間仕切りは畳み込んであった。そこを境に左側がダイニングキッチンだ。シンクとガスレンジがあり、冷蔵庫、テーブルが置いてある。右側にはフロアソファとリビングテーブル、大型の液晶テレビが目に付いた。リビングテーブルの上にノートパソコンがあったはずだが、鑑識が持っていったようだ。独身の会社員としては、なかなかに余裕のある住まいではないか。
血痕はこの部屋に入ってきてすぐに途切れ途切れとなり、部屋の中をどのように動き回ったかまでは教えてくれなかった。
まずはキッチンの方から、順に見て回る。棚の戸、引き出しはひとつ残らず開けた。シンクの下にある戸の内側には、包丁が一本だけ差してあった。鑑識では殺害に使われた凶器は大型のナイフではないかと見ている。おそらく犯人が持ってきたものに違いない。冷蔵庫も開けてみた。ペットボトルが四本、横倒しに入れてある。ミネラルウォーターだ。キッチン全体が乾いた感じで、汚れが少ない。ガスレンジの上の換気扇にも汚れがついていない。料理することが少なかったのだろう。古田が泊まりに来ても、コンビニの弁当などで済ましていたのか。冷蔵庫の脇のゴミ箱を覗くと、紙くずばかりだった。やはりコンビニのレシートが目に付く。
次にリビングへ移った。リビングデーブルの下に、雑誌がきれいに揃えて積んである。が、新聞は見当たらない。インターネットのニュースサイトで間に合わせているということもある。雑誌は、下から順に新しくなっている。この部屋に入った時からつきまとっていた直線的な感触が、雑誌の縁の線に重なった。几帳面の印象が強まる。掃除もまめにやったに違いない。というより、散らかさないように気を使った方だろうか。矢島哲也はこの部屋の主を「無趣味」と評したが、彼は、このリビングをある一定の状態に保つことに執着していたのではないかと思えてきた。土日に古田が泊まっていっていたというのは本当なのか、と疑問が湧く。
しかし、その疑問は洗面所に入って消えた。ドアの前に血の跡があって、ここへも犯人が足を踏み入れたことが分かる。洗面所は入ると洗濯機が置いてあり、左手が浴室になっていた。洗濯機の隣の洗面台に、ピンク色の柄の歯ブラシが一本、コップに入れてあった。それが古田の歯ブラシなら、後藤の所で週末を過ごしていたという話は嘘ではない。洗面台の上の鏡は、薬棚の戸になっていた。開けてみると、洗剤、コロン、整髪料などがきれいに並べて収納されている。ケースに入ったままの歯ブラシが二本あった。買い置きしていたのだ。一本はピンク色の柄で、もう一本は緑の柄。
部屋を出るとき三和土に立って、死体の様子を思い出してみた。
後藤瞭は、その時恐らくリビングにいた。インターホンに呼び出されてドアの前に来る。覗き穴から訪れた人間を確認してドアを開ける。来訪者は招じ入れられ、ドアを閉めると後藤と正対し、持ってきた凶器で後藤を刺した。何度も執拗に、恐るべき力で。後藤が倒れて虫の息になると、凶器を持ったままリビングに入り、中をうろついてから洗面所へ向かった。その後、部屋を出て鍵を閉め、闇の奥へ去る。後藤の鍵は部屋の中で発見されているので、犯人が使ったのは合鍵ということになる。
何も収穫がないまま、部屋を後にした。しかし、今見てきた部屋の様子の底で何かがこちらに合図を送ってきているような気がしていた。
2011-06-27 07:08
バアちゃんとぼく [小さな話]
下の道から見たこともない黒い車が上がってきて、軍人が降りた。風が切れそうな良い姿で、ぼくを見つけるとにっこり笑って言った。
「立原さんのお宅はこちらですか?」
「はい。」散歩に行こうとしていたぼくは、柴犬の流星号のリードを握ったままつっ立って答えた。流星号も緊張しているのが分かった。吠えるべきかどうか僕の方をチラッと見上げる。
「貴美子さんはご在宅でしょうか?」
「はい。バアちゃんは、家にいます。」言ってから、「祖母」と呼ばずに「バアちゃん」なんて呼んだことが恥ずかしくなってしまった。でも、軍人は気づかないふりをしてくれて、「ありがとう。」と言うと、家の玄関へ向かった。防衛軍の軍服の、濃紺の胸に、一尉を示す階級章がきらめいていた。
軍人が玄関の呼び鈴を押していると、隣の家から一平さんが出てきて、ぼくの家の方を見た。
その視線に気づいて軍人の顔が横を向くところへ、ちょうど玄関のドアが開き、バアちゃんの姿が現れた。軍人が敬礼をすると、バアちゃんが腕組みをした。軍人とバアちゃんは同じくらいの背丈だった。軍人は上背のある方だと思うが、バアちゃんは負けていない。今日のバアちゃんは、白いシャツを着てジーンズをはいている。髪の毛は頭の後ろでまとめてある。ぼくのところまでは軍人の声は届かなかった。それでもバアちゃんの大きな目が細められて、軍人の言ってることに納得していないことが分かった。
結局、軍人は家の中へ招き入れられ、玄関のドアが閉まったので、ぼくは流星号を連れて一平さんのところへ行った。
流星号は尻尾をおもいっきり振った。流星号も一平さんのことが大好きなのだ。一平さんは、しゃがみ込んで流星号の首を撫でてくれた。
「防衛軍の人だよ。」ぼくは言った。
「ふむ。」
「あの人、一尉だよ。」一平さんが太い眉毛を片方だけ上げた。
「ほぉ、若そうだけどな。優秀なんだろう。それにしても、久しぶりの軍が、そんな上の方の将校をよこして何の用だろうな。」
ぼくの家に防衛軍が訪ねてきたのは初めてのことだ。だから一平さんが「久しぶり」といったのは、ぼく達がこの家に住む前の事を思い出して言ったのだろう。ぼくの知らない話だ。
「散歩に行っておいで。」一平さんは立ち上がった。
「うん。」
散歩から帰ると、もう黒い車はいなくなっていた。秋の夕焼けがぼく達の家と一平さんの家をオレンジ色に濡らし、流星号と僕の影が地面に長く伸びた。
晩ご飯は、ぼく達の家で一平さんも一緒に食べる。一平さんは家族ではないが、ここに住むようになってからずっとそうしている。ぼく達三人の習慣の一つだ。
ぼく達三人は、東京を襲ったあの大侵入の後、ここへやってきた。それまでで最悪と言われた侵入は、ぼくの父母を奪い、祖父も又死んだ。バアちゃんはぼくを連れて、祖父の親友であり、仕事仲間でもあった一平さんを頼ったのだ。ここは、もともと一平さんのお兄さんの持ち物だった。そのお兄さん一家も、別の時の侵入によって死に、残された家と土地を一平さんが管理していたのである。一平さんのお兄さんは農業で暮らしていて、田んぼも相当に持っていたのだけれど、そちらの方は手に余るので売り払い、広い庭のある土地とそこに建てられた二棟の家だけを一平さんは手元に残した。家が二棟あったのは、息子が結婚したら住まわせようと、お兄さんが後から一棟立てたからだ。でも、その息子さんも死んでしまった。一平さんはぼく達に、その、後から建てられた方の家を使うといいと言ってくれた。一平さん自身は、滅茶苦茶になった東京の家を捨て、もともととお兄さんの家だった方で暮らし始めた。バアちゃんは一平さんに深く感謝していて、何度もそのことをぼくに話してくれた。
移り住んだその日、バアちゃんとぼくは手をつないで一平さんの家まで行って、一平さんを晩ご飯に招いた。それからはずっと、一平さんはぼく達の家へやって来て、一緒に晩ご飯を食べるようになった。
料理が出来上がるとバアちゃんは、キッチンの一平さん側の窓を開け、外に吊るしてある中華鍋をすりこ木で三回叩く。「コオン、コオン、コオン」という音がしてからしばらくすると一平さんがやって来て、腰を下ろすと晩ご飯が始まる。
テーブルのキッチンを背にした側にバアちゃんが座り、ぼくと一平さんは向かい合って座る。バアちゃんの向かいの席は流星号の席だ。流星号がそこに座るのは、冷蔵庫の前に置かれた皿の餌を食べてからだ。誰も煩わせずに自分で椅子に上がり、丸くなって、ぼく達が食事を終えるまでじっとしている。
バアちゃんは料理の天才で、晩ご飯はとびきり美味しい。「何も特別なことやっているわけじゃないのよ。ささっと料理するだけ。」とバアちゃんは言うが、極めつけの秘技があるんじゃないかと思う。ぼくのお気に入りは唐揚げだ。街まで下りて買ってくる鶏肉でも文句はないけれど、渋谷さんの家で飼っている鶏をもらえると最高だ。
今晩の料理は、あいにく唐揚げではなかった。それでも二番目に好きなカレー、チキンカレーだった。
「予報はどうだったの?」バアちゃんが聞いた。
晩ご飯の会話は、まず挨拶がわりに、侵入ついての予報を確認するところから始まる。
「四国の方で二十%。」と一平さんが答えた。
「そう。とりあえずは安全そうね。」
「当てになるわけない、あんなもの。」
予報の理屈は、地磁気の変動のパターンによって空間の変位を割り出し、侵入を予想するというものだが、一平さんによればそんな予想ができるわけないというのだ。
「地磁気の変動はたまたま観察されたに過ぎない。侵入との関連性はまだ確認されていないんだ。それをもって予報と称するのは、詐欺だよ。いや、危険極まりない。あやふやな情報は、混乱を増すだけだ。そもそも、侵入がどうやって起きるのか解明がなされていないと言うのに、何が予報だ。」
物理学者で、高度時空研究所の研究者だった一平さんは、侵入の予報をこき下ろす。高度時空研究所は、そもそも侵入が始まったところと言われている。祖父もそこの研究者だった。一平さんにしてみれば、侵入についていい加減なことを言われるのが耐えられないらしい。
「一平さんは、最初の侵入を見たんでしょう?」ぼくは尋ねた。もう何度も訊いたことだけれども、誰もそれを指摘したりはしない。一平さんは目を閉じて頷く。
「ああ。すべては、バーンというクロアチアの変人の思いつきが発端なんだ。バーンは悪い男ではなかった。少しだけ自分の考えにのめり込みすぎてしまっていた。立原くんは」ここで一平さんはバアちゃんの方を見た。「バーンを抑えようと頑張ってた。責任ある立場だったからね。でも、バーンの奴は自分の理論を証明しようと先を急ぎすぎて、超限加速装置の数値設定を誤った。それで、時空に何かが、うん、絶対に何かが起こって、こう断層ができるようにズレが発生し、あいつらの次元からの扉を開いてしまった。」一平さんは、深くため息をついた。「そうして侵入が起きたんだ。」
「大変な災厄の始まりね。」バアちゃんが言った。一平さんは顎が胸につくほど深く頷いた。
「後で分かったのだが、バーンが事を急いだのはお金のせいだった。隣の大国の愚か者どもがバーンの理論を兵器開発に使おうとして彼に近づき、莫大な研究費の援助をちらつかせたのさ。ありがちな話だ。ありふれた愚かさがありえない悲劇を招いた。」
「あいつらはすぐに侵入してきたの?」
「いいや、最初は空間の歪みだけだったよ。だから、何が起こったか誰も分からなかった。三日目にあいつらが現れたんだ。最初の犠牲者は、バーンだった。」
「食事時にふさわしい話とは言えなさそうね。」一平さんに微笑みながらバアちゃんが言った。
「ああ、申し訳ない。」
ここまではいつも通りだった。この後、普段なら、少し黙って料理を味わっていると、バアちゃんがぼくに話しかけて、また三人の会話が続くのだ。
でも、今日は少し違っていた。ぼくは、昼間のお客のことが知りたくてうずうずしていた。バアちゃんは一言も話してくれていなかった。ぼくは、合図のつもりで一平さんの顔を見守った。一平さんはぼくの視線に気づくと、カレーを一口食べ、スプーンを持った手の人差し指をぼくに持ち上げて見せてから言った。
「そう言えば、珍しい客があったようだね。」
「ええ。防衛軍が来たの。」バアちゃんは皿に目を落としたまま答えた。
「防衛軍が何の用事かな。」
「あの人、一尉だったよ。」バアちゃんはぼくの方をチラッと見た。
「大した用事じゃないのよ。お祖父ちゃんの遺族年金のこと。」
「遺族年金は文科省から支給されているはずだと思っていたが。」
「ちゃんと支給されているか確かめたかったんですって。」
「それはまた、ご丁寧だね。」バアちゃんは花びらが閉じるようにゆっくり笑った。
「この鶏肉も悪くないけれど、やっぱり渋谷さんのところの鶏が美味しいわね。」
バアちゃんが、話を変えて、その後軍人のことは話題にならないままになった。
朝起きたら、まず一番にテレビの予報を見る。近くで五十パーセントを超えていたら、非常用のリュックを持ってきて避難の準備をする。そんなことがなければ、流星号を散歩に連れていく。帰ってからバアちゃんと朝食をとる。それからバアちゃんを手伝って、洗濯と掃除。
終わるとぼくは外に出る。敷地をぐるりと一回りする。
そうすれば侵入が起こらない気がする。進む時計の針を指で戻したように、侵入を遠ざけておける気がする。何の根拠もない、ぼくだけのおまじないだ。世界中でぼくだけが信じている迷信だ。とことん効き目のない魔術。子供に侵入が防げるなら、今頃、世界はもっと幸せなはずだもの。
それは分かっていた。でも、ぼくは見回りをやめることができない。
一度、こんなことをやっても無駄なんだと思い、朝の見回りをやめたことがある。バアちゃんの手伝いが終わってから自分の部屋へ行ってじっとしていた。始めはなんともなかったが、そのうち心臓の鼓動が速くなって、顔中に汗が浮いてきた。汗をかいているのに、手足の先が冷たくなった。そのままじっとしていると、ぼくの中から何かが飛び出てきそうな気がして、ぼくは急いで見回りに行ったのだった。それで、ぼくは見回りをやめることができず、一日の決まった時間に繰り返している。そうしておけば、ぼくの心の波が静まったままでいてくれる。
敷地をぐるっと回って心が落ち着くのは、流星号が一緒に歩いてくれるせいもあると思う。
ぼくが玄関の方へ向かうと、流星号はどこにいても、ひょいと立ち上がってやって来て、一緒に外へ出る。見回りの時間を覚えていて、玄関の前に座って待っていることさえある。
流星号はぼくに歩調を合わせ、敷地の外寄りを歩く。敷地の外とぼくの間にいて、ぼくを守っているつもりなのだ。
流星号は地面に鼻を軽く近づけながら、ぼくは敷地を取り巻く景色を見ながら、黙ったままゆっくり一回りする。
ぼく達の家は丘のてっぺんに立っていて、飯本の市街地と、それに接して迫上っている山並みを見渡すことができる。飯本はこれまで大規模な侵入にあったことがない。一度でも侵入されると、家が倒され、道が壊され、醜い爪痕が残るので、すぐに分かる。
青空が高かった。
朝のさらさらとした光が、山並みの襞の辺りを白っぽく見せていた。
秋の中に、流星号と一緒に浮かんでいる気がした。
朝の見回りから戻ると、バアちゃんに勉強をみてもらう。
学校へは行ってない。行くと気持ちが悪くなるので、行けないのだ。小学二年生の時にここへ引っ越してきて、この辺りの子供が行く学校へひと月ほど通ったが、すぐに行かなくなってしまった。それから三年間、ずっとバアちゃんと勉強している。侵入が起きた時のことを恐れて子供を学校へ行かせない親がいるので、学校側もあまり強く言わないらしく、ぼくの場合もそれほど問題にされていない。二年生の時、ひと月だけ担任だった先生が、学年が上がる度に教科書を届けてくれ、週に一度は授業で使ったプリントをまとめて持ってきてくれる。「熱心な、ありがたい先生だね。」とバアちゃんは感心している。その先生は、「学校へ来たくなったら、いつでもいらっしゃい。私が待っててあげるから。」と言う。糸のように細い目をして笑う。そうして、黙っているぼくの肩をぽんぽんと叩いてから、手を振って帰っていく。ぼくは何も言うことができない。その先生が嫌いなのではないのに、舌がずんと重くなって、言葉がお腹の底に沈んでしまう。
「学校へ行ってみる?友達がいるよ。」バアちゃんはそんなぼくを見ながら、微笑んで言う。
ぼくは首を振る。
「まだ具合が悪くなりそう?」バアちゃんはぼくが頷くのを黙って見ている。
父と母と祖父を奪った大侵入が起きた時、ぼくは学校にいた。
一時間目が始まったばかりだった。職員室の方から何か大きな音がして、気味の悪い叫び声だとわかると、非常ベルが鳴り出した。ベルの音は信じられないくらい大きく、心臓の辺りを叩いてきた。
布を裂くような音が何度もして、ガラス窓が割れる音と悲鳴がごっちゃに響いた。先生が我に返って、「逃げて、逃げて!」と大声で叫んだが、ぼくも他の子も体が固まって動けなかった。
校庭側の窓がいっぺんに暗くなった。次の瞬間にガラス窓が全部吹き飛んだ。体全体を揺さぶる低い音がした。窓枠をめりめりと押し破りながら、バスほどもある、巨大なカタツムリの殻が押入ってきた。でもそれはカタツムリなんかじゃない。背負った殻は銅鍋色に輝いている。その下に覗いている真っ黒な体は、丸々と太い爪のようなものが無数に、びっしりと生えていた。その爪が一本一本震える。前から後ろへとその震えが波となって伝わっていく。
殻と爪の間から、平べったい触手が伸びて蠢いていた。髪の毛が生きているようだった。そこから、青白い炎に見える体液がシャーっと噴き出され、弧を描いて前方にだらだらと垂れる。それは実際炎のように、触れたものを焼き尽くした。お化けカタツムリの進路にいた何人かの子が、その液を浴びて悲鳴を上げた。服はあっと言う間に白い煙を上げてぼろぼろになった。皮膚は溶け、肉は崩れた。自分の手が焼け落ち、骨が現れてくるのを見ている子がいた。ぱんと弾けてのけぞり、くるくる回って倒れる子もいた。
平べったい触手は、伸び縮みしながら周囲を探り、触れたものを巻き込んで試すと、引き裂き、放り投げた。当然、触れた子供も引き裂かれ、まき散らかされた。仲の良かった友野和樹くんも、肉の塊にされた。小さな五本の指が、ばらばらになって降ってきて、ぼくの顔にあたったのを覚えている。
そいつは教室の天井よりも高かったので、天井を崩しながら進んだ。埃と、落ちてくる天井板と、がらがらという音と、叫び声に悲鳴。
それから後のことは覚えていない。
気がつくと白い壁に沿って寝ていた。天井と壁の継ぎ目の線をただ見ていた。また記憶が途切れて、次に気がついたときは、誰かがぼくの手を握っていた。体中が痛く、助けを求めて呻いた。痛みから逃れたくてもがこうとしたが、全然自分の思い通りにならなかった。深い穴にドーンと落ちて行くように気を失った。
ようやく目が覚めると、バアちゃんが側にいた。
「目が覚めたわね。」
「バアちゃん。」
「どう?苦しい?痛い?」ぼくは首を振った。体に力が入らなくて、ほんの少ししか頭が動かない。バアちゃんの後ろで、白いカーテンが風に膨らんでいた。ぼくの視線に気づいたのか、ばあちゃんが言った。
「ここは病院よ。」
「ぼくは助かったの?」
「ええ。少し怪我したけれど、大したことないから、もう大丈夫。」
「バアちゃん。」ぼくはもう一度呼んだ。
「大丈夫よ、もう大丈夫。」バアちゃんはぼくの手を持ち上げ、頬を寄せてくれた。バアちゃんの頬の柔らかさがほんとうに嬉しかった。
次の日にはもうベッドから起き上がれるようになり、それから一週間で退院することができた。後になってカレンダーで確認すると、意識を取り戻すまでは四、五日かかっていた。怪我は少しだけだったとバアちゃんは言っていたが、両方のこめかみに縫った跡があり、指で上から押さえると固いものが埋まっているのが感じられた。
そうして体は回復したのだが、この時のことが原因で、学校へ行くと気持ちが悪くなってしまうようになった。
登校したときはなんともない。その内時間が経つにつれ、胃の辺りに雲のようなものが溜まり、それがひくつく。心臓のリズムが乱され、息苦しくなる。自分ではどうしようもないので、胸を押さえているしかないのだが、周りがぼくの顔色に驚いてしまう。青いのを通り越して、土気色になっているらしい。慌てて保健室に連れていかれる。乾いて固くなった自分がその様子を見ている気がする。バアちゃんが迎えに来て、一平さんが運転する車で帰る。
これの繰り返しになってしまったので、バアちゃんもぼくも学校へ通うのを諦めてしまった。
不思議なのは、学校以外ではなんともないことだ。それに、あの時学校で起きたことは、繰り返し、繰り返し思い出す。でも怖くなったり、具合が悪くなったりすることはない。ただ、学校の教室にいる時だけ、いつの間にか倒れそうになる。ぼくの体だけが、大侵入の記憶を拒否しているようだ。
大侵入の時、母がどうなったか、父がどうなったかは、バアちゃんが教えてくれた。
母は勤め先で火事に巻き込まれて死んだ。遺体も遺品も見つからなかった。父は、祖父と一緒の研究所に勤めていたので、祖父ともども死んでしまった。こちらも遺体は発見されなかった。
たまたま自宅に帰っていたバアちゃんだけが生き残った。バアちゃんも父と祖父と一緒の研究所で働いていたので、いつも通りだったらバアちゃんまで死んでいたことだろう。バアちゃんは、自宅で侵入のニュースを聞き、それがこれまでとは比べものにならないほど大規模であることを知った。祖父の携帯を呼び出したが、もうその時点で繋がらなかったという。バアちゃんは外へ飛び出し、まずぼくを助け出すことを考えたそうだ。その頃のぼく達の家は、バアちゃんの家から十五分ほどのところにあった。ぼくの通う学校もそれほど遠くはなかったのだ。
バアちゃんはたった一人で瓦礫の中からぼくを助けだして、病院へ連れて行ってくれた。
その後、祖父とぼくの父母の消息を確かめるために走り回った。多分バアちゃんのことだから、研究所へ飛び、母の勤め先へ駆けつけたのだろう。交通機関がマヒしているのも、まだ侵入の危険が残っているかも知れないのも、二次災害の危険すらもバアちゃんは平気で乗り越えたと思う。そして、自分の夫も息子夫婦も死んだことを自分自身で確かめたのだろう。ぼくにはひと言も言わなかったけれど、もしかすると遺体の一部を見たかも知れない。
バアちゃんは、ぼく達の家族に起きたことを包み隠さず話してくれた。
その事実を受け止め、悲しんだり怒ったりの流れに浸けるよりも前に、ぼくはそれを話しているバアちゃんのことが心配になってしまった。いつもは風が人間になったようなひとが、その時は、ぼくのことをオロオロ心配して、小さくなって、もう粉々に砕けてしまいそうだった。
「…だから、ねえ、バアちゃんと一緒に暮らそう?」
ぼくはバアちゃんの唇の端が細かく震えるのを見ていた。バアちゃんが可哀想だと思っていた。
父母が帰って来なくなってしまったことは、ぼくの心のなかで井戸になった。深くて、底に暗さが溜まった井戸だ。月の光のような曖昧な明るさの中で、ぼくは井戸の周りを巡り続け、近寄って覗き込むことを避けてきた。だが、耳には届いていた。井戸の底で反響している音が聞こえていた。それは、父を亡くしたことでぼくが何もできない子供であることを告げているようだった。さらに母を失った子供であるということで、ぼくのことを出来損ないであると決めつけていた。おまけに井戸の底には冷たい水だけがあり、もう二度と暖かくなることはないと思われた。
そんな感じだったから、父のことや特に母のことは思い出さないように努めていたけれど、ただひとつ、いつの頃かはっきりしない記憶だけは、知らないうちに何度も呼び起こしていた。多分、もうずっと小さい頃のことだろうが、ぼくは母の目を覗きこみ、その濃い茶色の瞳に映る自分の顔を見て笑っていた。母も「映ってる?」と聞いて、笑っていた。
そしてあの母の瞳を思い出してバアちゃんの瞳を思い浮かべてみたり、バアちゃんの瞳を見ながら母の瞳はどんなだったろうと考えてみたりした。
バアちゃんの瞳に映るほど顔を近寄せたことはない。でもバアちゃんは、ぼくを助けだしてくれてからずっとぼくを見てくれていた。それは、天秤の端のおもりだった。反対側の端に乗っている何かを下におろしてしまわないための、バランスを取るおもりだった。
そのバアちゃんが、昨日、防衛軍の将校が来てからずっとぼくの目を避けていた。勉強を教えてくれている間も、いつものようにぼくの瞳をまっすぐ見てはくれなかった。
「はい、終わり。」ひとつ軽いため息をついてから、バアちゃんは教科書を閉じた。
ぼくは、バアちゃんの顔を見つめたが、話しかけるきっかけがつかめなかった。バアちゃんは立ち上がると、キッチンの方へ歩きながら普通らしく「お昼はいつも通りの時間よ。」と背中越しに言った。
バランスが崩れつつあった。
流星号を少しかまってから、ぼくはPCの前に座る。流星号が足元に寄り添って丸くなる。
インターネットで配信される侵入の情報をいつでもチェックできるよう、PCは起動したままだ。
ぼくは「異次元生物カタログ」というサイトを開いた。
このサイトでは、侵入してきたものを生物として捉え、その情報が整理されて、図鑑のように眺めることができた。侵入してくるものを生物とみなすことに反対する人もいる。一平さんもその一人だ。この世界の生物の概念であいつらを見ることは間違っている、というのだ。それでも、このサイトのオーナーやぼくのような科学者ではない者にとっては、分かりやすい考え方だった。
サイトのオーナーは、「キャプテン・H」と自称していた。
キャプテン・Hは、侵入のニュースを国内だけではなく、世界中から根気よく集めて整理していた。侵入は世界各地で起きているのだ。このサイトでは、アメリカにある同じようなサイトと提携して情報を交換しているとのことだった。キャプテン・Hの本職はシステム・エンジニアであると、プロフィールのページに書いてあった。
サイトは、侵入してきたものについての投稿も受け付けていて、誰でもサイトの「ボード」と呼ばれる掲示板にアップロードすることができる。大きな侵入が起きると、ボードには読みきれないほどのメッセージが投稿される。侵入の鎮静化後一日二日で、キャプテン・Hが投稿の情報を整理し、カタログに登録してくれる。
カタログの内容は、侵入生物の画像、動画、あるいはイラストと、その発生場所、日時、大きさなどの形状、現れた数と侵入の経過、それまでに侵入してきたものとの類似点、特徴、その生物による被害状況などが記されている。侵入生物と防衛軍の戦闘経過についても、実況中継のように記録されることがある。ボードにアップロードされた投稿へもリンクしていて、その生物についての投稿を一覧することもできた。
生物に名前をつけたりはしていない。ただ場所と時間で記号が振られているだけだ。他のサイトでは名前をつけたりしているところもあるが、ぼくは嫌いだった。キャプテン・Hは防衛軍が侵入生物の情報を取り扱う方式にならった、と書いていた。名前なんか付けると馬鹿馬鹿しい感じがするので、こちらのほうがいいと思う。
「異次元生物カタログ」には使いやすい索引ページがあり、時間順や場所、大きさ、数、特徴などの視点で検索できるようになっている。検索すれば、ぼくが遭遇したお化けカタツムリも当然見ることができる。
最近登録された情報は、「新着情報」のコーナーにリストアップされていて、ぼくはまずそこを見ることにしていた。
一番新しい情報は、半年前に千葉の市川市で起きた侵入で現れた生物だった。侵入は立て続けに起きることもあれば、三、四ヶ月何も無いこともあった。半年も侵入がないのは珍しく、テレビのニュース番組でも話題になっていた。
市川に現れた生物は、「ヒト型」と呼ばれるタイプのものだった。
これまでに確認された侵入生物は、約五千体。形状で分類されるものが約百十種。「ヒト型」は侵入例が割合に少ないタイプだ。携帯のカメラで撮られた画像が掲示されている。このサイトを知っている人が侵入の現場に居合わせて撮ったものだろう。「ヒト」と言うより、足で立ち上がった白い蛸に見える。記事によれば高さ三メートルぐらいだったとある。侵入生物の大きさは様々だ。一番小さいものは昆虫型の生物で、三十センチ程度。最大の「百足鯨型」は百メートルはある。最も多く見られるのは十メートル前後の大きさだから、市川に現れた「ヒト型」は小型だ。
市川の「ヒト型」は画像がぼやけていて、亡霊のように見えた。のっぺりとした頭には目も鼻も、口もない。人間の脚にあたるものはなく、筒型の胴体がそのまま地面に突き立っている。両脇に太い触手が垂れる。体全体が白っぽい。目立った凹凸もない。とても嫌な落書きを見ている感じがする。
「ヒト型」の出現状況は、他の侵入と同じだ。
眼球を指で押さえた時のように、視野に歪みが現れる。それが渦巻いて見える時もある。数秒後に、関門が開けられた感じで、向こう側の生物が侵入してくる。生物は、空間に置かれた見えない平面から身を突き出してくるようだ。全身がこちら側に出てきてしまうまで十秒もかからない。
市川の「ヒト型」の特徴は人間の捕食だった。触手で逃げ遅れた人を捕まえる。頭部がミカンの皮を剥いたように四つに開き、捕まえた人間をそこで食べてしまったらしい。記事には「食べ散らかした。」と書いてある。丸呑みしたのではないということだろう。食べちぎったということだろうか。人間を捕食する侵入生物はかなり多い。侵入してくるものを生物と考える人たちの根拠もこの捕食活動にある。市川の「ヒト型」は休日の繁華街に現れて、相当数の人間を餌食にしたようだ。逃げ惑う人間を追いかけて、建物を壊し、自動車をつぶした。動きが俊敏で、強力な侵入生物だったのだ。現場は「食べ散らかされた手足がごろごろと転がり、地獄となった。」
「ヒト型」の侵入の終結も、他の侵入と変わるところはない。侵入は普通長くて三日間続く。短い時は、一分程で終わることもある。防衛軍の到着が間に合えば、侵入してから一時間以内に侵入生物が掃討される。防衛軍が間に合わず、暴れるだけ暴れて消えてしまうことも多い。侵入生物は消える。ぼくも見たことがある。それは掻き消える。今まで見ていたのが間違いのようにいなくなる。一瞬の出来事だ。防衛軍に倒された死骸も同じで、跡形もなく無くなってしまう。この侵入生物の「消失」が人々の精神状態に悪い影響を与えていると唱えている心理学者がいるのを知っている。バアちゃんの言葉を借りれば、「醒めない悪夢になってしまった。」と感じる人がいるのだ。市川の侵入に防衛軍は間に合わず、「ヒト型」は消え去った。侵入してから一時間後のことだった。
防衛軍はだいたい間に合わない。
公式の発表では、今年は六割の掃討率となっている。国内で確認された侵入のうち、六割は侵入生物を掃討しているということだ。でも、みんな口には出さないけれど、防衛軍は間に合わないものと思っている。一平さんは、「被害が凄まじいので、間に合わなかった時のことが強く印象に残って、いつも間に合わないように感じるんだろうなあ。」と言っている。ぼくも同感だ。防衛軍は確かに戦っていて、侵入生物を撃退してくれている。「侵入生物カタログ」では、防衛軍が戦っている動画が最近よくアップロードされている。登録されている侵入生物について、防衛軍に掃討されたかどうかを集計してみれば、五割ぐらいにはなるんじゃないだろうか。
でも、五割ぐらいあいつらをやっつけたところで、死ぬ人が多すぎるのだ。二度と戻ってこない人が多すぎて、釣り合いが取れない。生き残っても、怪我をして後遺症に苦しんでいる人が大勢いる。侵入生物の変な体液を浴びて、骨が変形し、車椅子で暮らさなければいけなくなった人を飯本の街で見かけた。今まで一体だけ侵入が確認されている、「四〇一号」と呼ばれる生物は、オレンジ色の光線を出した。それは、人の体の組織を溶解させたが、破壊するのではなく、形を融かして再構成してしまうのであった。溶けた後、しばらくすると固まって、それでも生き続けるのだ。「四〇一号」が侵入してきたとき、一緒にいた二人の女性がその光線を浴び、体の半分がどろどろに溶けて混じり合い、そのままくっついて離れなくなってしまった。全然赤の他人同士が、ひとつの体になって暮らさなければならなくなった。彼女たちはいろいろな合併症に苦しみ、結局、電車に飛び込み自殺して決着をつけた。
侵入生物は街も破壊する。人間にも建物にも関心を示さない侵入生物がいる一方で、何の敵意を感じるのか、建物、自動車、電車、道路などを狂ったように破壊する生物がいる。その破壊に巻き込まれて死ぬ人もたくさんいる。そうでなくても十メートルの物体が動き回るので、街は自ずから傷つけられる。大人たちは、傷ついた街を復興しようという気持ちを無くしてしまった。侵入の後、自分たちの家がまだ住めるなら住み続け、家を壊された人は街を出ていってしまうことが多い。壊された家や建物はそのままにされる。後片付けを負担できる人などいない。役所も手が回らず、侵入の破壊が広範囲に及ぶと、住民がいなくなりゴーストタウンになってしまうこともある。大侵入の後、秋葉原がゴーストタウンになったと聞いた。
潰された家の前に立って呟く男の人の動画をインターネットで見たことがある。不安になるくらいに叩き潰された家はその人の自宅で、家の中にいた家族も全員死んでしまった。家族を奪われ、住む場所も無くなった男の人は、カメラに全然注意を払わず、小さな声で呟き続ける。瞳がまぶたの奥に隠れたようで、表情はわからない。顔色が悪く、頬の肉がたるんでいる。カメラが近寄って、男の人の声を拾う。
「…こんなになるなら、もう何も持たないほうがいいんだ。どうせ無くなるなら、家族も家も持たない方がましだ。それのほうがいい。それのほうがよっぽどいい。…」
男の人は恐怖と悲しみに縛られ、頭の何処かが痺れてしまっているのだろうか。
この動画の視聴回数は異常に多い。サイトではコメントもたくさんつけられている。その殆どが男の人に同情していた。同じように家族を亡くしたと自分の悲しみを綴るものもあった。定期的に「絶望してはいけない。この動画は、人々の希望を奪ってしまう。削除すべきだ。」というコメントが投稿されることがあるが、誰も相手にしていない。無視されて、同情と悲しみと辛さを訴えるコメントがまた流れていく。侵入は確実に人々の心を裂き、地面に這いつくばらせ、立ち上がろうとする気力を弱らせていた。
「立原さんのお宅はこちらですか?」
「はい。」散歩に行こうとしていたぼくは、柴犬の流星号のリードを握ったままつっ立って答えた。流星号も緊張しているのが分かった。吠えるべきかどうか僕の方をチラッと見上げる。
「貴美子さんはご在宅でしょうか?」
「はい。バアちゃんは、家にいます。」言ってから、「祖母」と呼ばずに「バアちゃん」なんて呼んだことが恥ずかしくなってしまった。でも、軍人は気づかないふりをしてくれて、「ありがとう。」と言うと、家の玄関へ向かった。防衛軍の軍服の、濃紺の胸に、一尉を示す階級章がきらめいていた。
軍人が玄関の呼び鈴を押していると、隣の家から一平さんが出てきて、ぼくの家の方を見た。
その視線に気づいて軍人の顔が横を向くところへ、ちょうど玄関のドアが開き、バアちゃんの姿が現れた。軍人が敬礼をすると、バアちゃんが腕組みをした。軍人とバアちゃんは同じくらいの背丈だった。軍人は上背のある方だと思うが、バアちゃんは負けていない。今日のバアちゃんは、白いシャツを着てジーンズをはいている。髪の毛は頭の後ろでまとめてある。ぼくのところまでは軍人の声は届かなかった。それでもバアちゃんの大きな目が細められて、軍人の言ってることに納得していないことが分かった。
結局、軍人は家の中へ招き入れられ、玄関のドアが閉まったので、ぼくは流星号を連れて一平さんのところへ行った。
流星号は尻尾をおもいっきり振った。流星号も一平さんのことが大好きなのだ。一平さんは、しゃがみ込んで流星号の首を撫でてくれた。
「防衛軍の人だよ。」ぼくは言った。
「ふむ。」
「あの人、一尉だよ。」一平さんが太い眉毛を片方だけ上げた。
「ほぉ、若そうだけどな。優秀なんだろう。それにしても、久しぶりの軍が、そんな上の方の将校をよこして何の用だろうな。」
ぼくの家に防衛軍が訪ねてきたのは初めてのことだ。だから一平さんが「久しぶり」といったのは、ぼく達がこの家に住む前の事を思い出して言ったのだろう。ぼくの知らない話だ。
「散歩に行っておいで。」一平さんは立ち上がった。
「うん。」
散歩から帰ると、もう黒い車はいなくなっていた。秋の夕焼けがぼく達の家と一平さんの家をオレンジ色に濡らし、流星号と僕の影が地面に長く伸びた。
晩ご飯は、ぼく達の家で一平さんも一緒に食べる。一平さんは家族ではないが、ここに住むようになってからずっとそうしている。ぼく達三人の習慣の一つだ。
ぼく達三人は、東京を襲ったあの大侵入の後、ここへやってきた。それまでで最悪と言われた侵入は、ぼくの父母を奪い、祖父も又死んだ。バアちゃんはぼくを連れて、祖父の親友であり、仕事仲間でもあった一平さんを頼ったのだ。ここは、もともと一平さんのお兄さんの持ち物だった。そのお兄さん一家も、別の時の侵入によって死に、残された家と土地を一平さんが管理していたのである。一平さんのお兄さんは農業で暮らしていて、田んぼも相当に持っていたのだけれど、そちらの方は手に余るので売り払い、広い庭のある土地とそこに建てられた二棟の家だけを一平さんは手元に残した。家が二棟あったのは、息子が結婚したら住まわせようと、お兄さんが後から一棟立てたからだ。でも、その息子さんも死んでしまった。一平さんはぼく達に、その、後から建てられた方の家を使うといいと言ってくれた。一平さん自身は、滅茶苦茶になった東京の家を捨て、もともととお兄さんの家だった方で暮らし始めた。バアちゃんは一平さんに深く感謝していて、何度もそのことをぼくに話してくれた。
移り住んだその日、バアちゃんとぼくは手をつないで一平さんの家まで行って、一平さんを晩ご飯に招いた。それからはずっと、一平さんはぼく達の家へやって来て、一緒に晩ご飯を食べるようになった。
料理が出来上がるとバアちゃんは、キッチンの一平さん側の窓を開け、外に吊るしてある中華鍋をすりこ木で三回叩く。「コオン、コオン、コオン」という音がしてからしばらくすると一平さんがやって来て、腰を下ろすと晩ご飯が始まる。
テーブルのキッチンを背にした側にバアちゃんが座り、ぼくと一平さんは向かい合って座る。バアちゃんの向かいの席は流星号の席だ。流星号がそこに座るのは、冷蔵庫の前に置かれた皿の餌を食べてからだ。誰も煩わせずに自分で椅子に上がり、丸くなって、ぼく達が食事を終えるまでじっとしている。
バアちゃんは料理の天才で、晩ご飯はとびきり美味しい。「何も特別なことやっているわけじゃないのよ。ささっと料理するだけ。」とバアちゃんは言うが、極めつけの秘技があるんじゃないかと思う。ぼくのお気に入りは唐揚げだ。街まで下りて買ってくる鶏肉でも文句はないけれど、渋谷さんの家で飼っている鶏をもらえると最高だ。
今晩の料理は、あいにく唐揚げではなかった。それでも二番目に好きなカレー、チキンカレーだった。
「予報はどうだったの?」バアちゃんが聞いた。
晩ご飯の会話は、まず挨拶がわりに、侵入ついての予報を確認するところから始まる。
「四国の方で二十%。」と一平さんが答えた。
「そう。とりあえずは安全そうね。」
「当てになるわけない、あんなもの。」
予報の理屈は、地磁気の変動のパターンによって空間の変位を割り出し、侵入を予想するというものだが、一平さんによればそんな予想ができるわけないというのだ。
「地磁気の変動はたまたま観察されたに過ぎない。侵入との関連性はまだ確認されていないんだ。それをもって予報と称するのは、詐欺だよ。いや、危険極まりない。あやふやな情報は、混乱を増すだけだ。そもそも、侵入がどうやって起きるのか解明がなされていないと言うのに、何が予報だ。」
物理学者で、高度時空研究所の研究者だった一平さんは、侵入の予報をこき下ろす。高度時空研究所は、そもそも侵入が始まったところと言われている。祖父もそこの研究者だった。一平さんにしてみれば、侵入についていい加減なことを言われるのが耐えられないらしい。
「一平さんは、最初の侵入を見たんでしょう?」ぼくは尋ねた。もう何度も訊いたことだけれども、誰もそれを指摘したりはしない。一平さんは目を閉じて頷く。
「ああ。すべては、バーンというクロアチアの変人の思いつきが発端なんだ。バーンは悪い男ではなかった。少しだけ自分の考えにのめり込みすぎてしまっていた。立原くんは」ここで一平さんはバアちゃんの方を見た。「バーンを抑えようと頑張ってた。責任ある立場だったからね。でも、バーンの奴は自分の理論を証明しようと先を急ぎすぎて、超限加速装置の数値設定を誤った。それで、時空に何かが、うん、絶対に何かが起こって、こう断層ができるようにズレが発生し、あいつらの次元からの扉を開いてしまった。」一平さんは、深くため息をついた。「そうして侵入が起きたんだ。」
「大変な災厄の始まりね。」バアちゃんが言った。一平さんは顎が胸につくほど深く頷いた。
「後で分かったのだが、バーンが事を急いだのはお金のせいだった。隣の大国の愚か者どもがバーンの理論を兵器開発に使おうとして彼に近づき、莫大な研究費の援助をちらつかせたのさ。ありがちな話だ。ありふれた愚かさがありえない悲劇を招いた。」
「あいつらはすぐに侵入してきたの?」
「いいや、最初は空間の歪みだけだったよ。だから、何が起こったか誰も分からなかった。三日目にあいつらが現れたんだ。最初の犠牲者は、バーンだった。」
「食事時にふさわしい話とは言えなさそうね。」一平さんに微笑みながらバアちゃんが言った。
「ああ、申し訳ない。」
ここまではいつも通りだった。この後、普段なら、少し黙って料理を味わっていると、バアちゃんがぼくに話しかけて、また三人の会話が続くのだ。
でも、今日は少し違っていた。ぼくは、昼間のお客のことが知りたくてうずうずしていた。バアちゃんは一言も話してくれていなかった。ぼくは、合図のつもりで一平さんの顔を見守った。一平さんはぼくの視線に気づくと、カレーを一口食べ、スプーンを持った手の人差し指をぼくに持ち上げて見せてから言った。
「そう言えば、珍しい客があったようだね。」
「ええ。防衛軍が来たの。」バアちゃんは皿に目を落としたまま答えた。
「防衛軍が何の用事かな。」
「あの人、一尉だったよ。」バアちゃんはぼくの方をチラッと見た。
「大した用事じゃないのよ。お祖父ちゃんの遺族年金のこと。」
「遺族年金は文科省から支給されているはずだと思っていたが。」
「ちゃんと支給されているか確かめたかったんですって。」
「それはまた、ご丁寧だね。」バアちゃんは花びらが閉じるようにゆっくり笑った。
「この鶏肉も悪くないけれど、やっぱり渋谷さんのところの鶏が美味しいわね。」
バアちゃんが、話を変えて、その後軍人のことは話題にならないままになった。
朝起きたら、まず一番にテレビの予報を見る。近くで五十パーセントを超えていたら、非常用のリュックを持ってきて避難の準備をする。そんなことがなければ、流星号を散歩に連れていく。帰ってからバアちゃんと朝食をとる。それからバアちゃんを手伝って、洗濯と掃除。
終わるとぼくは外に出る。敷地をぐるりと一回りする。
そうすれば侵入が起こらない気がする。進む時計の針を指で戻したように、侵入を遠ざけておける気がする。何の根拠もない、ぼくだけのおまじないだ。世界中でぼくだけが信じている迷信だ。とことん効き目のない魔術。子供に侵入が防げるなら、今頃、世界はもっと幸せなはずだもの。
それは分かっていた。でも、ぼくは見回りをやめることができない。
一度、こんなことをやっても無駄なんだと思い、朝の見回りをやめたことがある。バアちゃんの手伝いが終わってから自分の部屋へ行ってじっとしていた。始めはなんともなかったが、そのうち心臓の鼓動が速くなって、顔中に汗が浮いてきた。汗をかいているのに、手足の先が冷たくなった。そのままじっとしていると、ぼくの中から何かが飛び出てきそうな気がして、ぼくは急いで見回りに行ったのだった。それで、ぼくは見回りをやめることができず、一日の決まった時間に繰り返している。そうしておけば、ぼくの心の波が静まったままでいてくれる。
敷地をぐるっと回って心が落ち着くのは、流星号が一緒に歩いてくれるせいもあると思う。
ぼくが玄関の方へ向かうと、流星号はどこにいても、ひょいと立ち上がってやって来て、一緒に外へ出る。見回りの時間を覚えていて、玄関の前に座って待っていることさえある。
流星号はぼくに歩調を合わせ、敷地の外寄りを歩く。敷地の外とぼくの間にいて、ぼくを守っているつもりなのだ。
流星号は地面に鼻を軽く近づけながら、ぼくは敷地を取り巻く景色を見ながら、黙ったままゆっくり一回りする。
ぼく達の家は丘のてっぺんに立っていて、飯本の市街地と、それに接して迫上っている山並みを見渡すことができる。飯本はこれまで大規模な侵入にあったことがない。一度でも侵入されると、家が倒され、道が壊され、醜い爪痕が残るので、すぐに分かる。
青空が高かった。
朝のさらさらとした光が、山並みの襞の辺りを白っぽく見せていた。
秋の中に、流星号と一緒に浮かんでいる気がした。
朝の見回りから戻ると、バアちゃんに勉強をみてもらう。
学校へは行ってない。行くと気持ちが悪くなるので、行けないのだ。小学二年生の時にここへ引っ越してきて、この辺りの子供が行く学校へひと月ほど通ったが、すぐに行かなくなってしまった。それから三年間、ずっとバアちゃんと勉強している。侵入が起きた時のことを恐れて子供を学校へ行かせない親がいるので、学校側もあまり強く言わないらしく、ぼくの場合もそれほど問題にされていない。二年生の時、ひと月だけ担任だった先生が、学年が上がる度に教科書を届けてくれ、週に一度は授業で使ったプリントをまとめて持ってきてくれる。「熱心な、ありがたい先生だね。」とバアちゃんは感心している。その先生は、「学校へ来たくなったら、いつでもいらっしゃい。私が待っててあげるから。」と言う。糸のように細い目をして笑う。そうして、黙っているぼくの肩をぽんぽんと叩いてから、手を振って帰っていく。ぼくは何も言うことができない。その先生が嫌いなのではないのに、舌がずんと重くなって、言葉がお腹の底に沈んでしまう。
「学校へ行ってみる?友達がいるよ。」バアちゃんはそんなぼくを見ながら、微笑んで言う。
ぼくは首を振る。
「まだ具合が悪くなりそう?」バアちゃんはぼくが頷くのを黙って見ている。
父と母と祖父を奪った大侵入が起きた時、ぼくは学校にいた。
一時間目が始まったばかりだった。職員室の方から何か大きな音がして、気味の悪い叫び声だとわかると、非常ベルが鳴り出した。ベルの音は信じられないくらい大きく、心臓の辺りを叩いてきた。
布を裂くような音が何度もして、ガラス窓が割れる音と悲鳴がごっちゃに響いた。先生が我に返って、「逃げて、逃げて!」と大声で叫んだが、ぼくも他の子も体が固まって動けなかった。
校庭側の窓がいっぺんに暗くなった。次の瞬間にガラス窓が全部吹き飛んだ。体全体を揺さぶる低い音がした。窓枠をめりめりと押し破りながら、バスほどもある、巨大なカタツムリの殻が押入ってきた。でもそれはカタツムリなんかじゃない。背負った殻は銅鍋色に輝いている。その下に覗いている真っ黒な体は、丸々と太い爪のようなものが無数に、びっしりと生えていた。その爪が一本一本震える。前から後ろへとその震えが波となって伝わっていく。
殻と爪の間から、平べったい触手が伸びて蠢いていた。髪の毛が生きているようだった。そこから、青白い炎に見える体液がシャーっと噴き出され、弧を描いて前方にだらだらと垂れる。それは実際炎のように、触れたものを焼き尽くした。お化けカタツムリの進路にいた何人かの子が、その液を浴びて悲鳴を上げた。服はあっと言う間に白い煙を上げてぼろぼろになった。皮膚は溶け、肉は崩れた。自分の手が焼け落ち、骨が現れてくるのを見ている子がいた。ぱんと弾けてのけぞり、くるくる回って倒れる子もいた。
平べったい触手は、伸び縮みしながら周囲を探り、触れたものを巻き込んで試すと、引き裂き、放り投げた。当然、触れた子供も引き裂かれ、まき散らかされた。仲の良かった友野和樹くんも、肉の塊にされた。小さな五本の指が、ばらばらになって降ってきて、ぼくの顔にあたったのを覚えている。
そいつは教室の天井よりも高かったので、天井を崩しながら進んだ。埃と、落ちてくる天井板と、がらがらという音と、叫び声に悲鳴。
それから後のことは覚えていない。
気がつくと白い壁に沿って寝ていた。天井と壁の継ぎ目の線をただ見ていた。また記憶が途切れて、次に気がついたときは、誰かがぼくの手を握っていた。体中が痛く、助けを求めて呻いた。痛みから逃れたくてもがこうとしたが、全然自分の思い通りにならなかった。深い穴にドーンと落ちて行くように気を失った。
ようやく目が覚めると、バアちゃんが側にいた。
「目が覚めたわね。」
「バアちゃん。」
「どう?苦しい?痛い?」ぼくは首を振った。体に力が入らなくて、ほんの少ししか頭が動かない。バアちゃんの後ろで、白いカーテンが風に膨らんでいた。ぼくの視線に気づいたのか、ばあちゃんが言った。
「ここは病院よ。」
「ぼくは助かったの?」
「ええ。少し怪我したけれど、大したことないから、もう大丈夫。」
「バアちゃん。」ぼくはもう一度呼んだ。
「大丈夫よ、もう大丈夫。」バアちゃんはぼくの手を持ち上げ、頬を寄せてくれた。バアちゃんの頬の柔らかさがほんとうに嬉しかった。
次の日にはもうベッドから起き上がれるようになり、それから一週間で退院することができた。後になってカレンダーで確認すると、意識を取り戻すまでは四、五日かかっていた。怪我は少しだけだったとバアちゃんは言っていたが、両方のこめかみに縫った跡があり、指で上から押さえると固いものが埋まっているのが感じられた。
そうして体は回復したのだが、この時のことが原因で、学校へ行くと気持ちが悪くなってしまうようになった。
登校したときはなんともない。その内時間が経つにつれ、胃の辺りに雲のようなものが溜まり、それがひくつく。心臓のリズムが乱され、息苦しくなる。自分ではどうしようもないので、胸を押さえているしかないのだが、周りがぼくの顔色に驚いてしまう。青いのを通り越して、土気色になっているらしい。慌てて保健室に連れていかれる。乾いて固くなった自分がその様子を見ている気がする。バアちゃんが迎えに来て、一平さんが運転する車で帰る。
これの繰り返しになってしまったので、バアちゃんもぼくも学校へ通うのを諦めてしまった。
不思議なのは、学校以外ではなんともないことだ。それに、あの時学校で起きたことは、繰り返し、繰り返し思い出す。でも怖くなったり、具合が悪くなったりすることはない。ただ、学校の教室にいる時だけ、いつの間にか倒れそうになる。ぼくの体だけが、大侵入の記憶を拒否しているようだ。
大侵入の時、母がどうなったか、父がどうなったかは、バアちゃんが教えてくれた。
母は勤め先で火事に巻き込まれて死んだ。遺体も遺品も見つからなかった。父は、祖父と一緒の研究所に勤めていたので、祖父ともども死んでしまった。こちらも遺体は発見されなかった。
たまたま自宅に帰っていたバアちゃんだけが生き残った。バアちゃんも父と祖父と一緒の研究所で働いていたので、いつも通りだったらバアちゃんまで死んでいたことだろう。バアちゃんは、自宅で侵入のニュースを聞き、それがこれまでとは比べものにならないほど大規模であることを知った。祖父の携帯を呼び出したが、もうその時点で繋がらなかったという。バアちゃんは外へ飛び出し、まずぼくを助け出すことを考えたそうだ。その頃のぼく達の家は、バアちゃんの家から十五分ほどのところにあった。ぼくの通う学校もそれほど遠くはなかったのだ。
バアちゃんはたった一人で瓦礫の中からぼくを助けだして、病院へ連れて行ってくれた。
その後、祖父とぼくの父母の消息を確かめるために走り回った。多分バアちゃんのことだから、研究所へ飛び、母の勤め先へ駆けつけたのだろう。交通機関がマヒしているのも、まだ侵入の危険が残っているかも知れないのも、二次災害の危険すらもバアちゃんは平気で乗り越えたと思う。そして、自分の夫も息子夫婦も死んだことを自分自身で確かめたのだろう。ぼくにはひと言も言わなかったけれど、もしかすると遺体の一部を見たかも知れない。
バアちゃんは、ぼく達の家族に起きたことを包み隠さず話してくれた。
その事実を受け止め、悲しんだり怒ったりの流れに浸けるよりも前に、ぼくはそれを話しているバアちゃんのことが心配になってしまった。いつもは風が人間になったようなひとが、その時は、ぼくのことをオロオロ心配して、小さくなって、もう粉々に砕けてしまいそうだった。
「…だから、ねえ、バアちゃんと一緒に暮らそう?」
ぼくはバアちゃんの唇の端が細かく震えるのを見ていた。バアちゃんが可哀想だと思っていた。
父母が帰って来なくなってしまったことは、ぼくの心のなかで井戸になった。深くて、底に暗さが溜まった井戸だ。月の光のような曖昧な明るさの中で、ぼくは井戸の周りを巡り続け、近寄って覗き込むことを避けてきた。だが、耳には届いていた。井戸の底で反響している音が聞こえていた。それは、父を亡くしたことでぼくが何もできない子供であることを告げているようだった。さらに母を失った子供であるということで、ぼくのことを出来損ないであると決めつけていた。おまけに井戸の底には冷たい水だけがあり、もう二度と暖かくなることはないと思われた。
そんな感じだったから、父のことや特に母のことは思い出さないように努めていたけれど、ただひとつ、いつの頃かはっきりしない記憶だけは、知らないうちに何度も呼び起こしていた。多分、もうずっと小さい頃のことだろうが、ぼくは母の目を覗きこみ、その濃い茶色の瞳に映る自分の顔を見て笑っていた。母も「映ってる?」と聞いて、笑っていた。
そしてあの母の瞳を思い出してバアちゃんの瞳を思い浮かべてみたり、バアちゃんの瞳を見ながら母の瞳はどんなだったろうと考えてみたりした。
バアちゃんの瞳に映るほど顔を近寄せたことはない。でもバアちゃんは、ぼくを助けだしてくれてからずっとぼくを見てくれていた。それは、天秤の端のおもりだった。反対側の端に乗っている何かを下におろしてしまわないための、バランスを取るおもりだった。
そのバアちゃんが、昨日、防衛軍の将校が来てからずっとぼくの目を避けていた。勉強を教えてくれている間も、いつものようにぼくの瞳をまっすぐ見てはくれなかった。
「はい、終わり。」ひとつ軽いため息をついてから、バアちゃんは教科書を閉じた。
ぼくは、バアちゃんの顔を見つめたが、話しかけるきっかけがつかめなかった。バアちゃんは立ち上がると、キッチンの方へ歩きながら普通らしく「お昼はいつも通りの時間よ。」と背中越しに言った。
バランスが崩れつつあった。
流星号を少しかまってから、ぼくはPCの前に座る。流星号が足元に寄り添って丸くなる。
インターネットで配信される侵入の情報をいつでもチェックできるよう、PCは起動したままだ。
ぼくは「異次元生物カタログ」というサイトを開いた。
このサイトでは、侵入してきたものを生物として捉え、その情報が整理されて、図鑑のように眺めることができた。侵入してくるものを生物とみなすことに反対する人もいる。一平さんもその一人だ。この世界の生物の概念であいつらを見ることは間違っている、というのだ。それでも、このサイトのオーナーやぼくのような科学者ではない者にとっては、分かりやすい考え方だった。
サイトのオーナーは、「キャプテン・H」と自称していた。
キャプテン・Hは、侵入のニュースを国内だけではなく、世界中から根気よく集めて整理していた。侵入は世界各地で起きているのだ。このサイトでは、アメリカにある同じようなサイトと提携して情報を交換しているとのことだった。キャプテン・Hの本職はシステム・エンジニアであると、プロフィールのページに書いてあった。
サイトは、侵入してきたものについての投稿も受け付けていて、誰でもサイトの「ボード」と呼ばれる掲示板にアップロードすることができる。大きな侵入が起きると、ボードには読みきれないほどのメッセージが投稿される。侵入の鎮静化後一日二日で、キャプテン・Hが投稿の情報を整理し、カタログに登録してくれる。
カタログの内容は、侵入生物の画像、動画、あるいはイラストと、その発生場所、日時、大きさなどの形状、現れた数と侵入の経過、それまでに侵入してきたものとの類似点、特徴、その生物による被害状況などが記されている。侵入生物と防衛軍の戦闘経過についても、実況中継のように記録されることがある。ボードにアップロードされた投稿へもリンクしていて、その生物についての投稿を一覧することもできた。
生物に名前をつけたりはしていない。ただ場所と時間で記号が振られているだけだ。他のサイトでは名前をつけたりしているところもあるが、ぼくは嫌いだった。キャプテン・Hは防衛軍が侵入生物の情報を取り扱う方式にならった、と書いていた。名前なんか付けると馬鹿馬鹿しい感じがするので、こちらのほうがいいと思う。
「異次元生物カタログ」には使いやすい索引ページがあり、時間順や場所、大きさ、数、特徴などの視点で検索できるようになっている。検索すれば、ぼくが遭遇したお化けカタツムリも当然見ることができる。
最近登録された情報は、「新着情報」のコーナーにリストアップされていて、ぼくはまずそこを見ることにしていた。
一番新しい情報は、半年前に千葉の市川市で起きた侵入で現れた生物だった。侵入は立て続けに起きることもあれば、三、四ヶ月何も無いこともあった。半年も侵入がないのは珍しく、テレビのニュース番組でも話題になっていた。
市川に現れた生物は、「ヒト型」と呼ばれるタイプのものだった。
これまでに確認された侵入生物は、約五千体。形状で分類されるものが約百十種。「ヒト型」は侵入例が割合に少ないタイプだ。携帯のカメラで撮られた画像が掲示されている。このサイトを知っている人が侵入の現場に居合わせて撮ったものだろう。「ヒト」と言うより、足で立ち上がった白い蛸に見える。記事によれば高さ三メートルぐらいだったとある。侵入生物の大きさは様々だ。一番小さいものは昆虫型の生物で、三十センチ程度。最大の「百足鯨型」は百メートルはある。最も多く見られるのは十メートル前後の大きさだから、市川に現れた「ヒト型」は小型だ。
市川の「ヒト型」は画像がぼやけていて、亡霊のように見えた。のっぺりとした頭には目も鼻も、口もない。人間の脚にあたるものはなく、筒型の胴体がそのまま地面に突き立っている。両脇に太い触手が垂れる。体全体が白っぽい。目立った凹凸もない。とても嫌な落書きを見ている感じがする。
「ヒト型」の出現状況は、他の侵入と同じだ。
眼球を指で押さえた時のように、視野に歪みが現れる。それが渦巻いて見える時もある。数秒後に、関門が開けられた感じで、向こう側の生物が侵入してくる。生物は、空間に置かれた見えない平面から身を突き出してくるようだ。全身がこちら側に出てきてしまうまで十秒もかからない。
市川の「ヒト型」の特徴は人間の捕食だった。触手で逃げ遅れた人を捕まえる。頭部がミカンの皮を剥いたように四つに開き、捕まえた人間をそこで食べてしまったらしい。記事には「食べ散らかした。」と書いてある。丸呑みしたのではないということだろう。食べちぎったということだろうか。人間を捕食する侵入生物はかなり多い。侵入してくるものを生物と考える人たちの根拠もこの捕食活動にある。市川の「ヒト型」は休日の繁華街に現れて、相当数の人間を餌食にしたようだ。逃げ惑う人間を追いかけて、建物を壊し、自動車をつぶした。動きが俊敏で、強力な侵入生物だったのだ。現場は「食べ散らかされた手足がごろごろと転がり、地獄となった。」
「ヒト型」の侵入の終結も、他の侵入と変わるところはない。侵入は普通長くて三日間続く。短い時は、一分程で終わることもある。防衛軍の到着が間に合えば、侵入してから一時間以内に侵入生物が掃討される。防衛軍が間に合わず、暴れるだけ暴れて消えてしまうことも多い。侵入生物は消える。ぼくも見たことがある。それは掻き消える。今まで見ていたのが間違いのようにいなくなる。一瞬の出来事だ。防衛軍に倒された死骸も同じで、跡形もなく無くなってしまう。この侵入生物の「消失」が人々の精神状態に悪い影響を与えていると唱えている心理学者がいるのを知っている。バアちゃんの言葉を借りれば、「醒めない悪夢になってしまった。」と感じる人がいるのだ。市川の侵入に防衛軍は間に合わず、「ヒト型」は消え去った。侵入してから一時間後のことだった。
防衛軍はだいたい間に合わない。
公式の発表では、今年は六割の掃討率となっている。国内で確認された侵入のうち、六割は侵入生物を掃討しているということだ。でも、みんな口には出さないけれど、防衛軍は間に合わないものと思っている。一平さんは、「被害が凄まじいので、間に合わなかった時のことが強く印象に残って、いつも間に合わないように感じるんだろうなあ。」と言っている。ぼくも同感だ。防衛軍は確かに戦っていて、侵入生物を撃退してくれている。「侵入生物カタログ」では、防衛軍が戦っている動画が最近よくアップロードされている。登録されている侵入生物について、防衛軍に掃討されたかどうかを集計してみれば、五割ぐらいにはなるんじゃないだろうか。
でも、五割ぐらいあいつらをやっつけたところで、死ぬ人が多すぎるのだ。二度と戻ってこない人が多すぎて、釣り合いが取れない。生き残っても、怪我をして後遺症に苦しんでいる人が大勢いる。侵入生物の変な体液を浴びて、骨が変形し、車椅子で暮らさなければいけなくなった人を飯本の街で見かけた。今まで一体だけ侵入が確認されている、「四〇一号」と呼ばれる生物は、オレンジ色の光線を出した。それは、人の体の組織を溶解させたが、破壊するのではなく、形を融かして再構成してしまうのであった。溶けた後、しばらくすると固まって、それでも生き続けるのだ。「四〇一号」が侵入してきたとき、一緒にいた二人の女性がその光線を浴び、体の半分がどろどろに溶けて混じり合い、そのままくっついて離れなくなってしまった。全然赤の他人同士が、ひとつの体になって暮らさなければならなくなった。彼女たちはいろいろな合併症に苦しみ、結局、電車に飛び込み自殺して決着をつけた。
侵入生物は街も破壊する。人間にも建物にも関心を示さない侵入生物がいる一方で、何の敵意を感じるのか、建物、自動車、電車、道路などを狂ったように破壊する生物がいる。その破壊に巻き込まれて死ぬ人もたくさんいる。そうでなくても十メートルの物体が動き回るので、街は自ずから傷つけられる。大人たちは、傷ついた街を復興しようという気持ちを無くしてしまった。侵入の後、自分たちの家がまだ住めるなら住み続け、家を壊された人は街を出ていってしまうことが多い。壊された家や建物はそのままにされる。後片付けを負担できる人などいない。役所も手が回らず、侵入の破壊が広範囲に及ぶと、住民がいなくなりゴーストタウンになってしまうこともある。大侵入の後、秋葉原がゴーストタウンになったと聞いた。
潰された家の前に立って呟く男の人の動画をインターネットで見たことがある。不安になるくらいに叩き潰された家はその人の自宅で、家の中にいた家族も全員死んでしまった。家族を奪われ、住む場所も無くなった男の人は、カメラに全然注意を払わず、小さな声で呟き続ける。瞳がまぶたの奥に隠れたようで、表情はわからない。顔色が悪く、頬の肉がたるんでいる。カメラが近寄って、男の人の声を拾う。
「…こんなになるなら、もう何も持たないほうがいいんだ。どうせ無くなるなら、家族も家も持たない方がましだ。それのほうがいい。それのほうがよっぽどいい。…」
男の人は恐怖と悲しみに縛られ、頭の何処かが痺れてしまっているのだろうか。
この動画の視聴回数は異常に多い。サイトではコメントもたくさんつけられている。その殆どが男の人に同情していた。同じように家族を亡くしたと自分の悲しみを綴るものもあった。定期的に「絶望してはいけない。この動画は、人々の希望を奪ってしまう。削除すべきだ。」というコメントが投稿されることがあるが、誰も相手にしていない。無視されて、同情と悲しみと辛さを訴えるコメントがまた流れていく。侵入は確実に人々の心を裂き、地面に這いつくばらせ、立ち上がろうとする気力を弱らせていた。
2011-01-26 21:48
最初の課長 [小さな話]
課長がある日、「予知能力があるんじゃないかと思うんだよね。」と言いだした。
「じゃあ、何か予知してみせて下さい。」と返すと、「内線が鳴りだす前に、かけてくる人のことがふっと頭に浮かぶんだよ。」と言った。
猫でも膝に抱いていたい十一月の終りだった。
「やってみようか。」課長は嬉しそうに身じろぎした。
それで私達は、電話機を見つめて待つことになった。手を止めてじっとしていると、意外なほどに物音がない。その内、音にならないざわめきがあるような気がしてきた。たぶん、あちらこちらで昼食が準備されているのだ。壁の時計では、昼休みまであと二十分ほど。それを確認して、課長の顔に目を戻した。
課長は立ち上がっていて、机の電話の上に少し身を傾げている。電話が鳴るのを待っているというより、何かが出てくるのを構えているように見えた。
ちらりと私の方を見ると、にんまりと笑みを広げた。いたずらの共犯者に合図を送っているといった風だった。私は、二人でだるまさんが転んだみたいにじっとしているのがおかしくなり、脇腹の皮膚の内側がくすぐったくなってきた。笑いだすのを堪えている内に、頬が熱くなった。
笑わないようにと、課長の耳から顎の線に視線を滑らせてみた。いつも、あの辺りを触ってみたらどんな感じがするんだろう、と思っているので、それを思い出して気をそらせたのだ。
すると、奇妙なイメージが浮かんできた。空一面を雲が覆い、ぴたりと動きを止めている。雲の底は明かるい。光が柔らかくなり、物々の色が優しく、瑞々しい。読みさしの本を閉じた空気が満ちている。その雲の彼方では、戦争が始まっている。何と戦っているのか定かではないが、大風のように渦巻いている。
「はは、駄目だね。」課長がすとんと腰を下した。途端に内線が鳴りだした。私は跳びあがって電話を取った。机の端を握りしめ、課長の目が丸く見開かれている。
「はい、営業三課です。」笑いを堪えているので、声が裏返りそうだった。唇の端が痙攣した。
「はい。いらっしゃいます。お待ちください。」課長の方へ受話器を差し出した。「織田部長です。」
「はい。くっ。前川です。え?いえ、なんでもありません…」
課長は、笑いを抑えつけたので、鼻から変な音を漏らした。それを電話の向うの織田部長に聞き咎められたのだろう。私の方は、吹き出さないようにと手を口にあてていたが、もう鼻が思いきりひくひくしていた。涙が出そうにおかしかった。課長の額には汗が浮んでいた。
「ひゃー、びっくりしたぁ。」織田部長の電話を切ると、課長は高い声で言った。
結局、課長に予知能力があるかどうかは、分からないままになってしまった。私は半分くらい信じていたかもしれない。課長が織田部長の事を話し出す。すると織田部長から内線がかかってくる。そんなことが確かにあったような気がする。
あれは、予知能力なんて言わなくても、前川課長の性格から説明できるんじゃないかとも思う。きっとそれまでに会議や立ち話で前振りがあったに違いない。「○○について×××したいんだけど、どうかな?」とか。課長のことだから、だいたいその手の話には「はい、大丈夫です。」と答えてしまう。相手ががっかりするのを見たくないからだ。それで課長の内では(あの仕事、振られるぞ)という身構えができて、課長に接触してきた人の行動パターンが思い出される。商品課の鈴木課長が内線でぐずぐず言いたくなる時間帯だ、とかだ。そうすると前川課長は、鈴木課長のことを話したくなってきて、そこへ実際に鈴木課長の内線がかかる。こんな具合だったのだろう。
ただ、私たちのところへそれほど頻繁に内線がかかってくることはなかった。営業の織田部長、商品課の鈴木課長、経理課の平沼課長ぐらい。あと、商品が入荷した時に倉庫の担当者から確認の内線がかかってきた。一日一本、あるかないかだった。なにせ私達の営業三課は、忘れられた部署だったから。
こうなったのは織田部長の仕業である。
織田部長の前は遠山部長で、前川課長は遠山部長の派閥だった。周りはそう見ていた。課長自身は、派閥なんて夢にも思わない人なのに。遠山部長は急逝し、織田部長に交代して、前川課長は前部長派の残党みたいな扱いをうけることになった。
「遠山部長の遺志を継ぎつつ、僕の理想とする営業をつくっていきたい。」と織田部長は皆の前で宣言して、営業三課から仕事と人をどんどん減らした。故遠山部長と織田部長の間、あるいは織田部長と前川課長の間にしこりとなる過去の経緯があったのか、詳しくは知らない。案外何もなく、ただそんな流れになってしまって、周りも織田部長本人もそれに乗っかっただけなのかも知れない。
その時、前川課長は亡くなった遠山部長のことを考えていた。本人がそう言ったわけではなく、入社以来ずっと課長と仕事をしてきた私の目には、そう見えた。織田部長の理想が着々と私達の周りを侵食している時、課長は左腕を椅子の背にかけて、キーボードの上に視線をさ迷わせていた。たぶん、遠山部長のことを考えて。
遠山部長について、課長は「入社した時からお世話になった人だよ。」と言っていた。私は、入社試験の面接で初めて遠山部長に会った。遠山部長というとM字型に禿げあがった額を思い出す。だらんと垂れたような顔がその下に続き、低い声で「えっへっへっへ。」と笑った。遠目に見ているとそうでもないが、近付くと結構量感がある体型だった。「昼下がりのオランウータンが、ちゃんと背広を着てるみたいだよね。」と課長が言ったことがあった。私を笑わせようとしてくれたのだけれど、遠山部長を言い表わし過ぎて、パズルが解けたように私は納得してしまった。私が笑わないので、課長は少し残念そうだった。
遠山部長の家庭は、奥さん、働きだした息子さんと大学生の娘さんの四人だった。大田区のマンションの十二階に住んでいた。
四月下旬、疾い風の前触れが吹く夜、遠山部長の家族は、少し遅くなる息子さんを待たずに夕食をはじめていたと言う。課長によれば、部長の話題は家族のことが多かったそうなので、仲の良い家族だったのだろう。息子さんが帰ってきた頃には、和やかさも一層盛り上がったに違いない。家族の顔が食卓の周りに揃うと遠山部長は笑顔で、「これで全員だね。よし。」と言って立ち上がり、そのままリビングへ、ベランダへと出て、十二階から地上へ飛び降りてしまった。
遺書などはなかった。うつ病の薬を飲んでいたことが後で分かったそうだ。
その頃私は、うつ病のことをよく知らず、遠山部長の行動を納得できないと思っていた。何か隠された動機があるだろうと思っていた。社内でもそういう方向で噂話をする人がいた。仕事に行き詰まっていた、女性関係で悩んでいた、借金があった、会社の金を横領した、などなど。それらの噂話は、どれも根も葉もないもので、私はますます納得いかなくなっていた。それで一度、課長の前で自分のもやもやを口にしたことがある。
「納得いかないと言うけどさ、納得してどうするの?」珍しく目をそらして課長が言った。その頃はまだ、営業三課に他の人もいて、課長は彼等に気を使って低い声で話した。
「うつ病だったらしいよ。僕も、うつ病になったことが無いし、遠山部長本人じゃないから、言えることはここまでだと思ってるよ。」
私は、課長の言葉にたじろいだ。
「でも、うつ病って、隠し通せるものなんですか。」
「さあ。遠山部長の性格を考えると、家族に心配させるのが辛かったんだろうね。」課長は私の表情を見た。「納得いかないかい?」私がうなずくと、課長は続けた。
「うつ病のこと、調べてみたら?僕は、病気と遠山部長の間に都合の良い説明を置くより、部長のことを思い出すことにするよ。」
課長の唇が固く結ばれ、顎の筋肉が浮き上がったのが見えた。私は自分が嫌になって、かなり落ち込んだ。
遠山部長の死後、課長は流れから半分だけ身を引き抜いた。まだ半身は流れに任せながらも、あとの半身は向こう岸に気を取られていた。それは、表面だけなら、思い出に縛られている様子と区別できない。前川課長は故人の追憶に足をとられて、会社の隅に追いやられた、と取る人もいた。が、遠山部長に対して課長はそんなに湿った感傷を抱いてはいなかったと私は思っている。別の水位で、別の姿勢で、課長は遠山部長のことを考えていたと思う。
「じゃあ、何か予知してみせて下さい。」と返すと、「内線が鳴りだす前に、かけてくる人のことがふっと頭に浮かぶんだよ。」と言った。
猫でも膝に抱いていたい十一月の終りだった。
「やってみようか。」課長は嬉しそうに身じろぎした。
それで私達は、電話機を見つめて待つことになった。手を止めてじっとしていると、意外なほどに物音がない。その内、音にならないざわめきがあるような気がしてきた。たぶん、あちらこちらで昼食が準備されているのだ。壁の時計では、昼休みまであと二十分ほど。それを確認して、課長の顔に目を戻した。
課長は立ち上がっていて、机の電話の上に少し身を傾げている。電話が鳴るのを待っているというより、何かが出てくるのを構えているように見えた。
ちらりと私の方を見ると、にんまりと笑みを広げた。いたずらの共犯者に合図を送っているといった風だった。私は、二人でだるまさんが転んだみたいにじっとしているのがおかしくなり、脇腹の皮膚の内側がくすぐったくなってきた。笑いだすのを堪えている内に、頬が熱くなった。
笑わないようにと、課長の耳から顎の線に視線を滑らせてみた。いつも、あの辺りを触ってみたらどんな感じがするんだろう、と思っているので、それを思い出して気をそらせたのだ。
すると、奇妙なイメージが浮かんできた。空一面を雲が覆い、ぴたりと動きを止めている。雲の底は明かるい。光が柔らかくなり、物々の色が優しく、瑞々しい。読みさしの本を閉じた空気が満ちている。その雲の彼方では、戦争が始まっている。何と戦っているのか定かではないが、大風のように渦巻いている。
「はは、駄目だね。」課長がすとんと腰を下した。途端に内線が鳴りだした。私は跳びあがって電話を取った。机の端を握りしめ、課長の目が丸く見開かれている。
「はい、営業三課です。」笑いを堪えているので、声が裏返りそうだった。唇の端が痙攣した。
「はい。いらっしゃいます。お待ちください。」課長の方へ受話器を差し出した。「織田部長です。」
「はい。くっ。前川です。え?いえ、なんでもありません…」
課長は、笑いを抑えつけたので、鼻から変な音を漏らした。それを電話の向うの織田部長に聞き咎められたのだろう。私の方は、吹き出さないようにと手を口にあてていたが、もう鼻が思いきりひくひくしていた。涙が出そうにおかしかった。課長の額には汗が浮んでいた。
「ひゃー、びっくりしたぁ。」織田部長の電話を切ると、課長は高い声で言った。
結局、課長に予知能力があるかどうかは、分からないままになってしまった。私は半分くらい信じていたかもしれない。課長が織田部長の事を話し出す。すると織田部長から内線がかかってくる。そんなことが確かにあったような気がする。
あれは、予知能力なんて言わなくても、前川課長の性格から説明できるんじゃないかとも思う。きっとそれまでに会議や立ち話で前振りがあったに違いない。「○○について×××したいんだけど、どうかな?」とか。課長のことだから、だいたいその手の話には「はい、大丈夫です。」と答えてしまう。相手ががっかりするのを見たくないからだ。それで課長の内では(あの仕事、振られるぞ)という身構えができて、課長に接触してきた人の行動パターンが思い出される。商品課の鈴木課長が内線でぐずぐず言いたくなる時間帯だ、とかだ。そうすると前川課長は、鈴木課長のことを話したくなってきて、そこへ実際に鈴木課長の内線がかかる。こんな具合だったのだろう。
ただ、私たちのところへそれほど頻繁に内線がかかってくることはなかった。営業の織田部長、商品課の鈴木課長、経理課の平沼課長ぐらい。あと、商品が入荷した時に倉庫の担当者から確認の内線がかかってきた。一日一本、あるかないかだった。なにせ私達の営業三課は、忘れられた部署だったから。
こうなったのは織田部長の仕業である。
織田部長の前は遠山部長で、前川課長は遠山部長の派閥だった。周りはそう見ていた。課長自身は、派閥なんて夢にも思わない人なのに。遠山部長は急逝し、織田部長に交代して、前川課長は前部長派の残党みたいな扱いをうけることになった。
「遠山部長の遺志を継ぎつつ、僕の理想とする営業をつくっていきたい。」と織田部長は皆の前で宣言して、営業三課から仕事と人をどんどん減らした。故遠山部長と織田部長の間、あるいは織田部長と前川課長の間にしこりとなる過去の経緯があったのか、詳しくは知らない。案外何もなく、ただそんな流れになってしまって、周りも織田部長本人もそれに乗っかっただけなのかも知れない。
その時、前川課長は亡くなった遠山部長のことを考えていた。本人がそう言ったわけではなく、入社以来ずっと課長と仕事をしてきた私の目には、そう見えた。織田部長の理想が着々と私達の周りを侵食している時、課長は左腕を椅子の背にかけて、キーボードの上に視線をさ迷わせていた。たぶん、遠山部長のことを考えて。
遠山部長について、課長は「入社した時からお世話になった人だよ。」と言っていた。私は、入社試験の面接で初めて遠山部長に会った。遠山部長というとM字型に禿げあがった額を思い出す。だらんと垂れたような顔がその下に続き、低い声で「えっへっへっへ。」と笑った。遠目に見ているとそうでもないが、近付くと結構量感がある体型だった。「昼下がりのオランウータンが、ちゃんと背広を着てるみたいだよね。」と課長が言ったことがあった。私を笑わせようとしてくれたのだけれど、遠山部長を言い表わし過ぎて、パズルが解けたように私は納得してしまった。私が笑わないので、課長は少し残念そうだった。
遠山部長の家庭は、奥さん、働きだした息子さんと大学生の娘さんの四人だった。大田区のマンションの十二階に住んでいた。
四月下旬、疾い風の前触れが吹く夜、遠山部長の家族は、少し遅くなる息子さんを待たずに夕食をはじめていたと言う。課長によれば、部長の話題は家族のことが多かったそうなので、仲の良い家族だったのだろう。息子さんが帰ってきた頃には、和やかさも一層盛り上がったに違いない。家族の顔が食卓の周りに揃うと遠山部長は笑顔で、「これで全員だね。よし。」と言って立ち上がり、そのままリビングへ、ベランダへと出て、十二階から地上へ飛び降りてしまった。
遺書などはなかった。うつ病の薬を飲んでいたことが後で分かったそうだ。
その頃私は、うつ病のことをよく知らず、遠山部長の行動を納得できないと思っていた。何か隠された動機があるだろうと思っていた。社内でもそういう方向で噂話をする人がいた。仕事に行き詰まっていた、女性関係で悩んでいた、借金があった、会社の金を横領した、などなど。それらの噂話は、どれも根も葉もないもので、私はますます納得いかなくなっていた。それで一度、課長の前で自分のもやもやを口にしたことがある。
「納得いかないと言うけどさ、納得してどうするの?」珍しく目をそらして課長が言った。その頃はまだ、営業三課に他の人もいて、課長は彼等に気を使って低い声で話した。
「うつ病だったらしいよ。僕も、うつ病になったことが無いし、遠山部長本人じゃないから、言えることはここまでだと思ってるよ。」
私は、課長の言葉にたじろいだ。
「でも、うつ病って、隠し通せるものなんですか。」
「さあ。遠山部長の性格を考えると、家族に心配させるのが辛かったんだろうね。」課長は私の表情を見た。「納得いかないかい?」私がうなずくと、課長は続けた。
「うつ病のこと、調べてみたら?僕は、病気と遠山部長の間に都合の良い説明を置くより、部長のことを思い出すことにするよ。」
課長の唇が固く結ばれ、顎の筋肉が浮き上がったのが見えた。私は自分が嫌になって、かなり落ち込んだ。
遠山部長の死後、課長は流れから半分だけ身を引き抜いた。まだ半身は流れに任せながらも、あとの半身は向こう岸に気を取られていた。それは、表面だけなら、思い出に縛られている様子と区別できない。前川課長は故人の追憶に足をとられて、会社の隅に追いやられた、と取る人もいた。が、遠山部長に対して課長はそんなに湿った感傷を抱いてはいなかったと私は思っている。別の水位で、別の姿勢で、課長は遠山部長のことを考えていたと思う。
2010-11-21 19:11
自傷の流通 [小さな話]
「あ、『踊る大捜査線3』をご覧になったんですか?
ええ、観ました、観ました。実はあたし、織田裕二さんのファンなんです。この前の週末に行ってきました。結構、混んでましたね。
映画はどう思われました?
ああ、そうですよね。わたしも、ちょっとガッカリしたな。登場人物がみんな、もさもさって服を着込んでいて、ちっともカッコよくなかった。スピードが感じられませんでしたよね。
課長、厳しいなー、ふふふ。
柳葉敏郎さんの室井ですよね。偉くなって、なんとか審議官とかになってた。そのシーン分かります。最後の方です。確か、青島が楽しいですか、と室井に声をかけて、室井が黙って車に乗りこんで、そこで一言です。「シャバダバダ」?なんですか、それ。言ってませんよ、シャバダバダなんて。やだー、課長。おかしいー。そう聞こえたって、シャバダバダはないですって。秋田弁じゃないんですか。わたしも分かりませんけど。楽しいわけないだろう、とかそんな事じゃないんですか。あー、もう笑いすぎて涙でちゃう。
課長は映画がお好きなんですか。へえー、知らなかった。じゃあ、今度、お勧めの映画があったら教えてください。勉強します。勉強は、真面目すぎますか?
織田裕二さんのどこが好きかと言うとぉ、溌剌としてるじゃないですか。青島という役柄の設定だと言えば、そうですけど、溌剌とした人が好きなんです。父親に対する反発だと思うんですけど。父ですか?青島刑事には似ても似つかない最低の男です。残念ながら、まだ元気で働いてます。
えっと、少し聞いていただけますか?課長になら話せそうな気がする。
父はサラリーマンです。機械工具メーカーの設計技師です。会社は大きいそうですけれど、あまり表には名前が出てこないとか。父については、それだけです。それ以外なにも語るところがない人です。真面目とは違うんです。判で押したように寝起きして、会社に通い、休日はじっとしています。虫とかに近いかんじです。家の中に一緒に居ても、感情が感じられません。あまり口もきかないし。父親らしいことをしてくれたことはないんです。休みの日にどこかへ遊びに連れて行ってくれた事も一度もない。一度も、ですよ。学校の行事にも来てくれたことはありません。授業参観にも、運動会にも。無関心、無反応。笑ったり、泣いたり、嬉しがったりもしなければ、怒ったりもしない。だから、私、父親に怒られたこともないんです。テレビ、新聞?それも、見ないし、読まない。会社から帰ってくると、ほんとうにじっとしているんです。背広を着替えて、いつもの決まった場所、自分の部屋の座椅子なんですけど、そこでじっとしている。初めて見ると気味が悪いですよ。寝ているわけではなくて。充電しているみたいです。本当です。最低の、最悪の父親です。病気?さあ。違うと思いますけれど。会社では定期的に健康診断もやってるみたいですし。いえいえ、会社ではちゃんと話したりするらしいんです。どうも、家で、家族のわたしたちに対してだけ、無関心、無反応。
母は、いつも不安がっています。父が何を考えてるいるか分からないものだから、いっつもおろおろしちゃって。何故、どうやってあの二人が結婚したのか、謎なんですよね。
父のせいで、怒られないものだから、ずーっと反抗期です、私。
母と私は仲が良いですよ。父が相手にならない分、私が母の話し相手です。もうそれは、小さい頃から。母のことなら何でも分かりますし、母も私のことを分かってくれています。母は、私がいなければ駄目になると思います。姉妹みたいな母娘なんです。
今は、一人暮らしです。ええ、一昨年から、実家を出ました。大泉学園です。会社には1時間かからないですね。母ですか。寂しがってるとは思います。一人暮らしをしたいと言った時は、「本当に大丈夫なの」と心配してました。私としては父を見なくていいだけ、気分が楽っていうのもあります。生活を変えたいと思ってたんですよ。特別何かあったわけではないんですけどね。ふふ、毎日電話してきますよ。メールも、しょっちゅう。買い物の途中からメールしてきますから。
私ですか?いいえ。残念なことに父に似ているんです。さあ。イケメンなのかなぁ。まぁ、いい男だったのかも知れませんね。母は面食いなので、若い頃、父のそこに騙されたのかも。今はみっともないだけですけれど、アルバムで若い頃の写真を見ると、ちょっと爽やかな顔してるんですよね。
この前、夫婦喧嘩したって、メールしてきました。心配なんですよ、それが。母が隠してる。実は、どうも暴力を振るわれたらしいんです。信じられません。いい歳をした夫婦が。それに、あの父に、そんな感情があったということが、本当に信じられません。心配で、実家に帰ったんですが、母はニコニコしていて、何ともないわよ、なんて。ねえ、あなた、なんて言って、父の方を見たりするんです。父は父で、照れ臭そうな顔とかしたりするんです。え?夫婦ってそんなもんなんですか?分からないなぁ。その後は、何事もなさそうなんですけどねぇ。
課長のお宅も、夫婦喧嘩とかあるんですか?なんか、課長は絶対、夫婦喧嘩なんかしなさそう。奥さんを大事にする、って感じです。女の子の間では、課長は愛妻家だ、って噂ですよ。会社の愛妻家ランキング一位です。課長みたいな旦那さん、憧れだなあ。
憧れたらいけません?
憧れさせてくださいよぉ。
お子さんは、娘さん、おひとりでしたっけ?お幾つですか?じゃあ、小学校五年生?ふふふ、そうなんですか。ああ、お父さんの居場所がなくなる、って聞いたことあります。五年生だったら、もう肩車は無理ですねぇ。え?私、お父さんに肩車してもらうのが夢だったんですよぉ。へえぇ、そうなんですか。あ、課長は背が高いから、怖くなっちゃうんだ。なるほどぉ。私だったら平気なのに。今の私じゃありませんって。私なんか乗せたら、課長、腰を悪くしますよ。ええぇ?そんなことないです。結構お肉ついちゃってるんですから。細くないです。ええ、ダイエットはしてません。私、気にし出すと止まらなくなるんで、拒食症とかになりそうなんですよね。だから、なるべく体重は気にしないようにしてます。そうそう、体重計も目に入らない所に隠してます。」
From:時雄 To:恭子
Date:2010/7/8 22:30 +9:00
Subject:ママへ
会社の皆と飲んでて、遅くなりました。これから帰ります。先に寝てていいよ。
From:高松祥之 To:菅原時雄
Date:2010/7/8 22:38 +9:00
Subject:お久しぶり
高松です。
元気ですか。さっき、携帯に電話したんですけど、繋がらなかったんで、メールします。どうせ、飲んでるんだろうね。携帯にでないということは、結構楽しんでるんだろうな。
自分ばかり楽しまないで、友達にも会ってくれよ。仕事が一段落ついたので、今度、飲みませんか。連絡ください。バーベキューの打合せもしたいし。
じゃ、恭子さんと茉莉ちゃんにもよろしく。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/8 23:42 +9:00
Subject:ありがとうございました。
菅原課長
樫山です。今日は、ありがとうございました。
課長とお話ができて、課長のお考えがよく理解できました。それに、仕事以外のお話しも聞けたので、とても楽しかった。課長は、私のイメージ通りです。先月から新しい環境で、色々不安や悩みもありましたけれど、もう大丈夫だと思います。私は、課長のグループで頑張ります。
でも、なんだか私ばかり話していたみたいで、申し訳ありません。普段はあんなにおしゃべりじゃないんですよ。信じてくださいね。でも、今日は、課長がしっかり受け止めてくださるので、ついつい甘えてしまいました。次は、課長の映画のお話を聞きたいので、また誘ってくださいね。
では、おやすみなさい。
From:(株)トゥモロー To:菅原課長
Date:2010/7/13 9:20 +9:00
Subject:システム連携のスケジュールについて
東機システムズ株式会社 菅原課長
いつもお世話になります。(株)トゥモローの中道です。
ご連絡が遅くなり、申し訳ありません。
東機製作所様とのシステム連携の件、早速のご対応、ありがとうございます。
誠に申し訳ございませんが、弊社側のスケジュールについては、現在調整中でございます。その為、ご連絡いただきましたスケジュールでの対応につきまして、実施できない場合がございますので、その旨、ご了承くださいますよう、お願いいたします。
なお、弊社側のスケジュールについては、別途、ご連絡させていただきます。
ご迷惑をおかけしますが、以上、よろしく御願いもうしあげます。
From:吉田彰俊 To:菅原課長
Date:2010/7/13 10:45 +9:00
Subject:Re:トゥモローとのシステム連携スケジュール
菅原課長
トゥモローさんとのシステム連携、どうなりましたか?
スケジュールが、先方の都合で未定になっている、と聞きましたけれど、もしそうなら、製作所の商品照会画面の方を先にして予定を組みたいと思います。よろしく。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/13 13:03 +9:00
Subject:グループ会議、延期します。
菅原課長
明日のグループ会議、都合により延期します。次回の日時については、追って連絡します。
P.S.
例によって、吉田部長の気紛れだよ。つまんない仕事を押し付けられたんだって?ご愁傷さま。エリート課長も辛いね。
昨日、樫山恵美と飲んだらしいね?どう、彼女?
From:時雄 To:恭子
Date:2010/7/13 19:01 +9:00
Subject:ママへ
これから帰ります。
From:高松祥之 To:菅原時雄
Date:2010/7/13 20:12 +9:00
Subject:Re:Re:お久しぶり
高松です。
それじゃ、そういうことで、よろしく。藤田にも声をかけておきます。来れないかもしれないけど。バーベキューの候補地は、こっちで調べておくよ。
じゃ、恭子さんと茉莉ちゃんにもよろしく。
From:総務課 田口 To:菅原課長
Date:2010/7/14 9:05 +9:00
Subject:人事考課面談について
菅原課長
総務課田口です。来月の人事考課面談について、課長が担当されているセクションの面談スケジュールが提出されておりません。よろしくお願いします。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/14 10:27 +9:00
Subject:(未設定)
暑いね。そんだけ。
From:(株)トゥモロー To:菅原課長
Date:2010/7/14 10:31 +9:00
Subject:Re:Re:Re:Re:システム連携のスケジュールについて
東機システムズ株式会社 菅原課長
いつもお世話になります。(株)トゥモローの中道です。
さて、東機製作所様とのシステム連携の件ですが、弊社側のスケジュールが確定しましたので、ご連絡いたします。詳細につきましては、添付のエクセルファイルをご覧ください。遅くなりましたことをお詫び申し上げます。
添付ファイル中にも記載してあります通り、大変急でもうしわけないのですが、連携のテストを9月6日(月)より開始とさせていただきたいと思います。
重ね重ねご迷惑をおかけしますが、以上、よろしくお願いもうしあげます。
From:(株)トゥモロー To:菅原課長
Date:2010/7/14 10:44 +9:00
Subject:Re:Re:Re:Re:Re:Re:システム連携のスケジュールについて
東機システムズ株式会社 菅原課長
いつもお世話になります。(株)トゥモローの中道です。
ご連絡いたしましたシステム連携のスケジュールは、案ではなく、これでいきましょうというものです。かなりタイトな日程であることは、当方も承知しておりますが、何分他社さんとの兼ね合いもありますので、東機製作所様だけを特例とするわけにもまいりません。そこのところをご了解いただければ幸いです。
今回のスケジュールにつきましては、弊社の都合により、ご迷惑をおかけしておりまして、大変もうしわけなく思っております。
なお、このスケジュールにつきましては、事前に、当社の原口が御社の吉田部長と打合せさせていただいたと聞いております。ご確認ください。
From:吉田彰俊 To:菅原課長
Date:2010/7/14 11:06 +9:00
Subject:Re:システム連携スケジュールの件
菅原課長
(株)トゥモローとのシステム連携については、先日、先方の原口課長と会って、先方の状況について説明を受けています。
今回のシステム連携の日程については、先方の事情を飲みこんであげてください。止むを得ない都合もあると思います。でも、プロジェクトの進捗については、君のグループなら問題ないでしょうから、後は任せますので、よろしく。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/14 14:20 +9:00
Subject:飯、食ったのか?
なにカリカリしてんの?また、吉田部長かよ。
かわいそうねぇ、菅原ちゃん。寂しくなったら僕のところにおいで。一緒に飲んであげるから。
あ、そうだ。飲みに行く時は、樫山恵美も誘おうぜ。
「参ったよ。山手線がさ、遅れてて。すまんね。え?うん、一体なんだろうね。ここの所、しょっちゅうだ。『後続の電車が遅れておりますので、時間調整をいたします。』だよ。なんとなく納得いかないよな、あれ。いや、駅に停まってる間に、次から次に乗ってくるから、もうギュウギュウになって、その内、気持ち悪くなる奴がでてきて、今度は『気分の悪くなられたお客様がいらっしゃいますので、しばらく停車いたします。』だよ。どんどん遅れてきちゃってさ。
え?車内アナウンスの真似が上手い?お前、人の話しのどこを聞いてるんだよ。まったく。
遅れる電車にも腹が立つけど、乗ってる客にも腹が立つね。混んでるってのに、携帯だのゲームだのを持ちだしてさ。顔の真ん前にかかげて、周りなんかおかまいなしだもんな。どうなってるんだろうね、あれは。お前、混んでる時に、携帯とかする?しないよなぁ。そんなにメールしたいか、ゲームしたいか、だよ。そもそも、俺は、携帯だとかゲーム機の小さい画面が嫌いなんだ。もう狭っ苦しくてさ、息がつまりそうなんだよ。それにね、目が痛くなって、駄目だ。そいでもって、あの格好だよ。携帯やゲーム機の画面に見入ってる格好、どう思う?いい格好かね?携帯とかゲーム機のメーカーの奴らは、もう少し考えたほうがいいよな。あんな格好した奴が街中にあふれて、美しいか?なんて言うのかなあ、みんなちょっと寄り目になってさ。美人もイケメンも台無しだぜ。小さい箱を後生大事に抱えて、御託でも聞くみたいにのめりこんで、そんな顔を他人の目にさらして、平気なのか。一番恥かしい所が剥きだしだ、っていうのは誰の言葉だったっけな?それなのに、恥かしい顔が呆けた様子をさらしているにもかかわらず、どいつもこいつも全然気づいていないんだ。そんな街の風景を作りだしてんだぜ。携帯のメーカーは、さ。ゲーム機屋さんは、さ。
え?相変わらずかよ。はいはい。こればっかりはね、治らないんです。すんませんですな。
どう、そっちは。忙しい?景気は?どこも同じだね。俺のとこも似たようなものだよ。ほら、不景気な顔してるだろ。変わんない?そうかなぁ。人間的な深みは増したと思ってるんだが。へへへ。
お前さ、そう言えば、この前どうして携帯にでなかったんだよ。飲んでたって?誰と?いやいや、俺様以外にお前さんに飲む相手がいるのか、と思って。いいじゃんよぉ、教えてくれたって。だから、誰とよ。会社の部下?女か?お、図星。おいおい、これは只事じゃないね。とうとう菅原の君も、鬼畜の仲間入りか。そんなんじゃない、って、どんなんだよ。そんなもこんなも、俺はまだ何も言っちゃいないよ。話せ、白状しろ。その娘、綺麗なのか?写真がある?お前なぁ、なんでそんなもの持ってるの?ますます怪しい。課の連中と記念写真?もうちょっとましな言い訳したら。わかった、わかった。わかったから、見せろよ。ほら、携帯をよこせって。
どれどれ。ああ、この右端の?おお。いい女じゃん。う〜ん。なんか、こう、独特の雰囲気だね、これは。恭子さんとは違うタイプだな。え?恭子さんを引き合いに出すな?いいだろう、そんなこと。俺の勝手だね。俺はなあ、血の涙を流して彼女を諦め、身を引いたのだ。何かにつけても彼女を思い出す権利があるというものだぜ。あの恭子さんの夫の座にのうのうとふんぞり返っている菅原君にとやかく言われたくないね。なんだよ。お前はな、俺がどれだけ恭子さんのことを愛していたか、知ってるだろ。だろ?ああ、はいはい。お前にとっては昔のことかも知れないけど、俺にとっては、まだ終ってないの、彼女のことは。ええ、ええ、そうですよ。ひきずってますよ。ずるずるだよ。だからな、これだけは言っておくがな、お前らにもしもの事があったらな、恭子さんに言っちゃうよ、俺は。プロポーズしちゃうよ。
わかったよ。声がでかくなるのもしかたないだろう。わかったよ。
でさ、なんでその女と二人で飲むことになったの。忘れてないよ。大変だもん。事と次第によっては、恭子さんに告げ口しなけりゃならんからな。え、菅原君、吐いてしまいなさいよ。楽になるよ。いや、変な勘繰りしてるわけじゃないさ。お前の事だから、何か事情があると思ってるの。そうだぜ。何年の付き合いなんだよ。憧れの人を譲る友情を何だと思ってんのさ。何があった。
ふ〜ん。ああ、そうか、いわゆる問題有りってやつか。前の部署でもゴタゴタしてたんだ。情緒面ね。課長はいろいろな面倒みなきゃならないなぁ。仕事だけじゃ収まりつかないよなぁ。しかし、美人なのに。関係ないか。セクハラ?ははは、そうだね。怖いね。
でも、分かる気がするな。もう一度写真見せてみな。うん。確かに。このさ、独特の雰囲気ね。化粧を決めてるのに、どこか粉吹いたみたいな、な。ちょっと脆そうな、な。そうだぜ。共通してあるんだよ、そういう雰囲気がね。笑ってろよ。」
From:恭子 To:パパ
Date:2010/7/16 21:17 +9:00
Subject:Help!
パパへ。パソコンが固まって、動かないんだけど。どうしよう?このままにしておきますので、よろしくね。
From:時雄 To:恭子
Date:2010/7/16 22:49 +9:00
Subject:ママへ
高松と飲んでました。これから帰ります。パソコンの件、帰ってからやっておきます。そのままで、先に寝ててください。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/16 22:51 +9:00
Subject:こんばんはー!
菅原課長
樫山です。こんばんは。
もうご自宅ですか?
今日は、課長がいそいそとお帰りになったので、気になってメールしちゃいました。お友達と会ってらっしゃったのですか?
先週、課長とお話しできて、あんなに楽しかったのに、今週は、お忙しいようで、殆どお話しできないのがちょっと寂しい感じです。また、飲みに誘ってください。
トゥモローさんの件、頑張ります。
では。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/16 22:51 +9:00
Subject:Re:Re:こんばんはー!
うわー、課長から返事がいただけるなんて!ウレシー!
今、私、にっこにこして、ホッとしてるんです。さっきのメール、失礼だったかなぁって、送信してから凹んでたんです。
でも、課長は、本当に優しいんですね。課長の部署に配属されて、よかったという気持ちでいっぱいです。
明日も仕事、頑張るぞー!って、明日から三連休でしたね。何の予定もないから、忘れてました。気を取り直して、来週も、頑張ります。
ではでは、お休みなさい。
奥様とお嬢さんにもよろしくお伝えください。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/19 16:40 +9:00
Subject:来週、お時間をいただけないでしょうか。
菅原課長
樫山です。
お休みのところ、申し訳ありません。
来週、お時間をいただけないでしょうか。個人的なことなのですが、課長に話しを聞いていただきたいのです。このままでは、どうかなってしまいそうです。わがままなお願いですが、どうかお時間をください。お願いします。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/19 20:01 +9:00
Subject:Re:Re:来週、お時間をいただけないでしょうか。
菅原課長
樫山です。
すみません、来週のことですけれど、忘れてください。
もう大丈夫です。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/20 10:18 +9:00
Subject:憤慨
ちょっとさ、聞いてくれよ。納品の前日になって、二日分のデータを作れだとよ。なんだあの会社は。信じられないぜ。
菅原課長さま、何とか言ってやってくださいまし。あの、馬鹿会社の馬鹿部長に。
From:恭子 To:パパ
Date:2010/7/20 17:00 +9:00
Subject:パパへ
茉莉です。
今晩、早く帰ってきますか?
From:時雄 To:恭子
Date:2010/7/20 17:05 +9:00
Subject:Re:パパへ
茉莉へ。
会社の打合せで、少しだけ、遅くなりそうです。ごめんね。
From:時雄 To:恭子
Date:2010/7/20 21:21 +9:00
Subject:ママへ
会議が長引いて遅くなりました。無理なことを言ってくるクライアントがいて困ります。でも、今、終りましたので、帰ります。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/20 22:38 +9:00
Subject:ありがとうございました。
菅原課長
樫山です。
今日は、本当にありがとうございました。私、わがままな女ですね。反省してます。
でも、課長に話しを聞いてもらえたので、心が晴れ晴れとした気分です。
ありがとうございました。
From:高橋明宏 To:菅原課長
Date:2010/7/22 11:07 +9:00
Subject:システム連携の進捗について
菅原課長
(株)トゥモローとのシステム連携の進捗についてですが、予定より遅れています。ちょっと立て直しが必要かと思います。打合せの時間を下さい。
それから、樫山さんの担当分なんですけど、決められたルールに従って進捗を報告するように指導してください。仕事のクォリティは問題ないんですが、どうも自分勝手で困ります。それと、チームのメンバーに対する接し方にも、もう少し気をつかって欲しいと思います。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/22 13:05 +9:00
Subject:菅原大明神殿
梅雨はもう終ったんだっけ?なんだい、この暑さ。どうにかして、菅原の神様。
営業部の岩瀬ちゃん、辞めるらしい。赤ちゃんできちゃったから。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/22 13:08 +9:00
Subject:Re:Re:菅原大明神殿
俺じゃないよ。営業の藤田だよ。岩瀬ちゃんは藤田と結婚するんだな。9月に辞めるんだってよ。
From:高橋明宏 To:菅原課長
Date:2010/7/22 14:19 +9:00
Subject:Re:Re:システム連携の進捗について
菅原課長
樫山さんの言動については、以前に口頭でも報告してあります。報告書にしますか?
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:20107/23 10:10 +9:00
Subject:Re:相談
菅原様
樫山恵美のことなら、少しは噂を聞いてるよ。メールで書くのも何だけど。菅原大明神のお膝もとでも火の手をあげましたか?
彼女、感情の起伏が激しいんだよ。情緒不安定の面もあるらしい。仕事の方は問題ない、と言うより上々だと。その辺りは、菅原さんのほうがご存知でしょう。噂だけから判断するに、依存心が強いんじゃないかな。彼女の口のきき方も、ちょっと澄ましたところがあって、人を責めるような感じがあるよ。でも、噂だから、本人とじっくり話し合うのが王道でしょう。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/23 21:07 +9:00
Subject:ごめんなさい。
菅原課長
樫山です。
今日は、ご指導ありがとうございました。ご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありません。本当にごめんんなさい。
会議室で、あんな態度をとってしまって、課長に不貞腐れていると思われたのじゃないかと心配です。実は、ショックで体が固くなっていたのです。それで、満足に返事をすることもできなかったんです。私のこういうところが、誤解されてしまうんですね。反省しています。
だから、私は、課長のご意見に不満だったのではありません。逆です。課長のお話しがじわって、深く染み込んだ感じです。
周りの人にどう思われてるか、課長から聞けてよかった、と思っています。転ぶ前に手を差し伸べてもらった気がします。きっと、菅原課長でなければ、私の心には届かなかったと思います。例えば、3グループの大竹リーダーなんかだったら、私は絶対受け入れられなかったでしょう。でも、菅原課長だから、素直に聞くことができました。
私って、イヤな女だったんですね。友達もできないし(お昼休みには、一人でお弁当を食べているんですよ…涙)、男の人達の目もなんだかギスギスしてる気がして、どうしてか分からなかったんですが、これでハッキリしました。課長にズバリと心臓をつかれて、血の気がひくほどショックでしたけれど、でも本当の姿を知ることができました。
私、明日から、生れ変ります。ずっと強い女になります。心配しないでください。あ、心配なんかしてません?とにかく、明日からは、樫山恵美改造プロジェクトの発足です。仕事も頑張ります。課長に褒めていただける女になるために、努力します。ダイエットもしなくちゃ。しばらくは、ご迷惑をおかけするかもしれませんが、見守っててくださいね。
だから、今日は、本当にごめんなさい、&ありがとうございました。
P.S.
ひとつだけお願いがあります。
こうして課長にメールすることを許可してくださらないでしょうか。
課長に私の気持ちを知っていただかないと、駄目になってしまいそうな気がするんです。今も、私、折れてしまいそうなんです。
だから、メールだけでいいですから、許してください。
P.S.のP.S.
小指の包帯ですが、ちょっと包丁で切ってしまいました。ご心配、ありがとうございます。でも、大丈夫です。
From:高松祥之 To:菅原時雄
Date:2010/7/25 20:33 +9:00
Subject:Re:Re:バーベキューについて
高松です。
なんだよ、秋ケ瀬公園じゃ、問題あるの?
恭子さんにも了解とってあるんだからね。茉莉ちゃんも喜んでくれたぜ。
バーベキュー・グリル等々はこちらで用意するから、ターフとか椅子とかをお願いします。いつも通りで。
恭子さん、きれいだなぁ(遠い目)。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/25 22:49 +9:00
Subject:夜遅く、すみません。
菅原課長
夜分、申し訳ありません。
今日、足を怪我してしまいました。足の小指を家具にぶつけて、腫れてしまったのです。ジンジンしてます。なので明日、少し遅刻します。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:20107/27 10:42 +9:00
Subject:やったね!
おい、見てたぞ。よくぞ言ってくれたよ。さすが、菅原課長。拍手。
吉田部長の顔、見たか。目を、こぼれそうに剥いて、顔が真っ青だったぜ。
トゥモローなんか糞くらえ、だって。製作所の連中も、システム連携なんざどうでもいいと思ってるさ。
うちのチームでは、菅原課長万歳のメールが回ってるって。
俺たち応援してるからな。でも、左遷されてもついて行かない(笑)。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/27 23:11 +9:00
Subject:こんばんは。
菅原課長
こんばんは、樫山です。
今日は大変でしたね。課長と吉田部長のバトル、怖かったぁ。課長の真剣な表情、すごく迫力があって、びっくりしました。
吉田部長は、ぶるぶる震えてましたよ。あんな、横暴で自分勝手で、がさつな奴、自業自得なんです。
私が前のグループに在籍していた時、吉田部長にこう言われました。『女というだけでもお荷物だなんだから、せいぜい人に迷惑をかけないよう、気をつかえ』。信じられますか。あいつは、人間として最低です。下劣な男です。人の上に立つ器じゃないと思います。本来の部長職としての仕事を全うしていないくせに、権力だけふりかざしている。
今回のトゥモローさんの件も、はっきり言って公私混同もいいところではないですか。
今のままでは、課長がかわいそうです。
吉田部長は、今回の件を根に持って、陰険にしかえししてくると思います。どんな手を使ってくるかと想像すると、おぞましくて身の毛がよだちます。あのクソ部長、死んでしまえばいいのに。死ね。死ね。
課長、吉田部長が何をしてきても、負けないでください。闘ってください。私も闘います。課長の為に、吉田部長に引き裂かれても構いません。私達の赤い血で吉田部長の不正を染めあげて、白日のもとに晒してやりましょう。そうすれば、社長がそれを見て、必ず正義が執行されると思います。
課長、負けないでくださいね。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/28 8:20 +9:00
Subject:樫山です。電車遅延で遅れます。
菅原課長
樫山です。山手線が止まっているようですので、遅刻すると思います。
よろしくお願いします。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/29 7:02 +9:00
Subject:遅れます。
菅原課長
樫山です。
今朝、ちょっとお腹が痛いので、午前中、病院に寄ってから出社させてください。
よろしくお願いします。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/29 13:08 +9:00
Subject:ご報告
吉田部長、あんたからもらった一発が相当こたえたみたいだぜ。取り巻きに、あんたの機嫌を聞いてたってよ。すごいね、菅原課長。次の部長は、決まったね。
お節介かも知れないけれどさ、手の打ちどころを考えてた方がいいと思うよ。吉田部長もまだまだ使える人だし。俺だったら、こちらから頭下げるけれど、ね。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/29 13:19 +9:00
Subject:Re:Re:ご報告
吉田部長の取り巻きだと思われたなら、心外だな。
俺が冷や飯くってるのは誰のせいだと思ってるの?吉田さんにまんまと嵌められたんだぜ。
それは、ともかく、菅原課長が頭下げに行けば、すべて丸く収まると思うよ。菅原さん、ちゃんと考えてんだな。えらいよ。
ところでさ、週末は?また、家族サービスですか。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/29 13:24 +9:00
Subject:Re:Re:Re:Re:ご報告
秋ケ瀬公園でバーベキュー?!
ひょっとして熱中症で自殺する気ですか?
あそこ、暑いだろう。信じられん。奥さん、よくOKだしたね。
From:菅原恭子 To:高松さん
Date:2010/7/29 18:38 +9:00
Subject:こんばんは。土曜日のバーベキューの件です。
高松さん。恭子です。
こんばんは。
土曜日のバーベキューの件ですけど、ちょっと心配な事がありまして、メールしました。
お友達の奥さんが、先週の日曜日に秋ケ瀬公園に行ったらしんですが、この天気で、暑くて大変だったそうなんです。大人だけではなく、特に小さい子が、参ってしまったと聞きました。高松さんのところの秋ちゃんも、うちの茉莉も、そんなに小さい子ではないから、問題ないかな、と思いますが、ほら、あそこは日陰がないでしょう?熱中症対策とか考えておかないと駄目なんじゃないかと思って。
私も日焼けは怖いし。もう、若くないから。ね。
From:高松祥之 To:菅原恭子
Date:2010/7/29 18:44 +9:00
Subject:Re:こんばんは。土曜日のバーベキューの件です。
恭子さん。
高松です。メールありがとう。
わかりました。秋ケ瀬公園は、たしかに日陰がないですよね。7月にあそこでバーベキューは無謀かもしれません。秋ケ瀬公園、やめましょう。別の場所を探します。OK、ご心配なく。
恭子さんは、いつまでも若いですよ。
From:高松祥之 To:菅原時雄
Date:2010/7/29 19:03 +9:00
Subject:Re:計画変更
高松です。
そういうこと。だってぇ、恭子さんの提案だぜ。もう最重要事項だよ。
ま、なんとかするから。ご心配なく。
From:高松祥之 To:菅原時雄
Date:2010/7/29 19:07 +9:00
Subject:Re:計画変更
高松です。
なんだよ。俺達の仲だろう。恭子さんと連絡とったら悪いのか。
あれ、嫉妬してるの?
心配だったら、早く帰りなさい。
早く帰って、美人の奥さんの話しに耳を傾けるんだな。恭子さん、嘆いてたぜ。最近、怖い顔して、会社の問題社員の話しばかりする、って。問題社員って、あれか?この前二人きりで飲んだ女か?問題あるのは、菅原君の方じゃないの?
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/30 23:01 +9:00
Subject:残念でした。
菅原課長
樫山です。
こんばんは。
今日は、残念でした。
菅原課長が、吉田部長と笑顔でお話しされているところを見たからです。
私の本当の気持ちを書きます。なんだか、裏切られた気分です。
でも、きっと菅原課長はいろいろ考えられてるんですよね。
私ひとり、眉を吊り上げて、馬鹿みたい。なんて。
菅原課長、私を置いてけぼりにしないでください。
では、また来週。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/8/2 9:01 +9:00
Subject:体調不良で、遅れます。
菅原課長
樫山です。
具合が悪いので、遅れます。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/8/3 8:11 +9:00
Subject:遅刻します(泣)
菅原課長
樫山です。
今日も、具合が悪いので、遅れます。申し訳ありません。
From:菅原恭子 To:高松さん
Date:2010/8/5 10:17 +9:00
Subject:先日はありがとうございました。
高松さん。恭子です。
土曜日は、ありがとうございました。とっても楽しかった。
あんな所があるんですね。全然知らなかった。涼しくて、水遊びもできて、茉莉もとっても喜んでました。
どこで知ったんですか。
また遊びに行きましょうね。
涼子さんと秋ちゃんにもよろしくお伝えください。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/8/6 11:27 +9:00
Subject:お休みさせてください。
菅原課長
樫山です。
熱があるようなので、今日はお休みさせてください。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/8/6 11:45 +9:00
Subject:Re:Re:お休みさせてください。
菅原課長
樫山です。
ありがとうございます。
起き上がれたら、午後にでも病院へ行ってみようと思います。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/8/9 6:13 +9:00
Subject:お休みします。
菅原課長
樫山です。
具合が悪いので、お休みします。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/8/13 13:01 +9:00
Subject:Re:樫山さんの事
火曜日から無断欠勤なのか?!
そう言えば、最近見かけないなあと思ってたけど。無断欠勤とは。そんな女の子だったっけ?病気?
電話にはでないの?
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/8/13 13:24 +9:00
Subject:Re:Re:樫山さんの事
おいおい、家庭訪問じゃあるまいし、彼女の家に行くつもりかい?
電話にでるんなら、ちゃんと連絡を会社に入れて、病院へ行って治療するように指導するしかないんじゃないの?いくら管理職だからといって、家に押し掛けるのは…、
ええ、観ました、観ました。実はあたし、織田裕二さんのファンなんです。この前の週末に行ってきました。結構、混んでましたね。
映画はどう思われました?
ああ、そうですよね。わたしも、ちょっとガッカリしたな。登場人物がみんな、もさもさって服を着込んでいて、ちっともカッコよくなかった。スピードが感じられませんでしたよね。
課長、厳しいなー、ふふふ。
柳葉敏郎さんの室井ですよね。偉くなって、なんとか審議官とかになってた。そのシーン分かります。最後の方です。確か、青島が楽しいですか、と室井に声をかけて、室井が黙って車に乗りこんで、そこで一言です。「シャバダバダ」?なんですか、それ。言ってませんよ、シャバダバダなんて。やだー、課長。おかしいー。そう聞こえたって、シャバダバダはないですって。秋田弁じゃないんですか。わたしも分かりませんけど。楽しいわけないだろう、とかそんな事じゃないんですか。あー、もう笑いすぎて涙でちゃう。
課長は映画がお好きなんですか。へえー、知らなかった。じゃあ、今度、お勧めの映画があったら教えてください。勉強します。勉強は、真面目すぎますか?
織田裕二さんのどこが好きかと言うとぉ、溌剌としてるじゃないですか。青島という役柄の設定だと言えば、そうですけど、溌剌とした人が好きなんです。父親に対する反発だと思うんですけど。父ですか?青島刑事には似ても似つかない最低の男です。残念ながら、まだ元気で働いてます。
えっと、少し聞いていただけますか?課長になら話せそうな気がする。
父はサラリーマンです。機械工具メーカーの設計技師です。会社は大きいそうですけれど、あまり表には名前が出てこないとか。父については、それだけです。それ以外なにも語るところがない人です。真面目とは違うんです。判で押したように寝起きして、会社に通い、休日はじっとしています。虫とかに近いかんじです。家の中に一緒に居ても、感情が感じられません。あまり口もきかないし。父親らしいことをしてくれたことはないんです。休みの日にどこかへ遊びに連れて行ってくれた事も一度もない。一度も、ですよ。学校の行事にも来てくれたことはありません。授業参観にも、運動会にも。無関心、無反応。笑ったり、泣いたり、嬉しがったりもしなければ、怒ったりもしない。だから、私、父親に怒られたこともないんです。テレビ、新聞?それも、見ないし、読まない。会社から帰ってくると、ほんとうにじっとしているんです。背広を着替えて、いつもの決まった場所、自分の部屋の座椅子なんですけど、そこでじっとしている。初めて見ると気味が悪いですよ。寝ているわけではなくて。充電しているみたいです。本当です。最低の、最悪の父親です。病気?さあ。違うと思いますけれど。会社では定期的に健康診断もやってるみたいですし。いえいえ、会社ではちゃんと話したりするらしいんです。どうも、家で、家族のわたしたちに対してだけ、無関心、無反応。
母は、いつも不安がっています。父が何を考えてるいるか分からないものだから、いっつもおろおろしちゃって。何故、どうやってあの二人が結婚したのか、謎なんですよね。
父のせいで、怒られないものだから、ずーっと反抗期です、私。
母と私は仲が良いですよ。父が相手にならない分、私が母の話し相手です。もうそれは、小さい頃から。母のことなら何でも分かりますし、母も私のことを分かってくれています。母は、私がいなければ駄目になると思います。姉妹みたいな母娘なんです。
今は、一人暮らしです。ええ、一昨年から、実家を出ました。大泉学園です。会社には1時間かからないですね。母ですか。寂しがってるとは思います。一人暮らしをしたいと言った時は、「本当に大丈夫なの」と心配してました。私としては父を見なくていいだけ、気分が楽っていうのもあります。生活を変えたいと思ってたんですよ。特別何かあったわけではないんですけどね。ふふ、毎日電話してきますよ。メールも、しょっちゅう。買い物の途中からメールしてきますから。
私ですか?いいえ。残念なことに父に似ているんです。さあ。イケメンなのかなぁ。まぁ、いい男だったのかも知れませんね。母は面食いなので、若い頃、父のそこに騙されたのかも。今はみっともないだけですけれど、アルバムで若い頃の写真を見ると、ちょっと爽やかな顔してるんですよね。
この前、夫婦喧嘩したって、メールしてきました。心配なんですよ、それが。母が隠してる。実は、どうも暴力を振るわれたらしいんです。信じられません。いい歳をした夫婦が。それに、あの父に、そんな感情があったということが、本当に信じられません。心配で、実家に帰ったんですが、母はニコニコしていて、何ともないわよ、なんて。ねえ、あなた、なんて言って、父の方を見たりするんです。父は父で、照れ臭そうな顔とかしたりするんです。え?夫婦ってそんなもんなんですか?分からないなぁ。その後は、何事もなさそうなんですけどねぇ。
課長のお宅も、夫婦喧嘩とかあるんですか?なんか、課長は絶対、夫婦喧嘩なんかしなさそう。奥さんを大事にする、って感じです。女の子の間では、課長は愛妻家だ、って噂ですよ。会社の愛妻家ランキング一位です。課長みたいな旦那さん、憧れだなあ。
憧れたらいけません?
憧れさせてくださいよぉ。
お子さんは、娘さん、おひとりでしたっけ?お幾つですか?じゃあ、小学校五年生?ふふふ、そうなんですか。ああ、お父さんの居場所がなくなる、って聞いたことあります。五年生だったら、もう肩車は無理ですねぇ。え?私、お父さんに肩車してもらうのが夢だったんですよぉ。へえぇ、そうなんですか。あ、課長は背が高いから、怖くなっちゃうんだ。なるほどぉ。私だったら平気なのに。今の私じゃありませんって。私なんか乗せたら、課長、腰を悪くしますよ。ええぇ?そんなことないです。結構お肉ついちゃってるんですから。細くないです。ええ、ダイエットはしてません。私、気にし出すと止まらなくなるんで、拒食症とかになりそうなんですよね。だから、なるべく体重は気にしないようにしてます。そうそう、体重計も目に入らない所に隠してます。」
From:時雄 To:恭子
Date:2010/7/8 22:30 +9:00
Subject:ママへ
会社の皆と飲んでて、遅くなりました。これから帰ります。先に寝てていいよ。
From:高松祥之 To:菅原時雄
Date:2010/7/8 22:38 +9:00
Subject:お久しぶり
高松です。
元気ですか。さっき、携帯に電話したんですけど、繋がらなかったんで、メールします。どうせ、飲んでるんだろうね。携帯にでないということは、結構楽しんでるんだろうな。
自分ばかり楽しまないで、友達にも会ってくれよ。仕事が一段落ついたので、今度、飲みませんか。連絡ください。バーベキューの打合せもしたいし。
じゃ、恭子さんと茉莉ちゃんにもよろしく。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/8 23:42 +9:00
Subject:ありがとうございました。
菅原課長
樫山です。今日は、ありがとうございました。
課長とお話ができて、課長のお考えがよく理解できました。それに、仕事以外のお話しも聞けたので、とても楽しかった。課長は、私のイメージ通りです。先月から新しい環境で、色々不安や悩みもありましたけれど、もう大丈夫だと思います。私は、課長のグループで頑張ります。
でも、なんだか私ばかり話していたみたいで、申し訳ありません。普段はあんなにおしゃべりじゃないんですよ。信じてくださいね。でも、今日は、課長がしっかり受け止めてくださるので、ついつい甘えてしまいました。次は、課長の映画のお話を聞きたいので、また誘ってくださいね。
では、おやすみなさい。
From:(株)トゥモロー To:菅原課長
Date:2010/7/13 9:20 +9:00
Subject:システム連携のスケジュールについて
東機システムズ株式会社 菅原課長
いつもお世話になります。(株)トゥモローの中道です。
ご連絡が遅くなり、申し訳ありません。
東機製作所様とのシステム連携の件、早速のご対応、ありがとうございます。
誠に申し訳ございませんが、弊社側のスケジュールについては、現在調整中でございます。その為、ご連絡いただきましたスケジュールでの対応につきまして、実施できない場合がございますので、その旨、ご了承くださいますよう、お願いいたします。
なお、弊社側のスケジュールについては、別途、ご連絡させていただきます。
ご迷惑をおかけしますが、以上、よろしく御願いもうしあげます。
From:吉田彰俊 To:菅原課長
Date:2010/7/13 10:45 +9:00
Subject:Re:トゥモローとのシステム連携スケジュール
菅原課長
トゥモローさんとのシステム連携、どうなりましたか?
スケジュールが、先方の都合で未定になっている、と聞きましたけれど、もしそうなら、製作所の商品照会画面の方を先にして予定を組みたいと思います。よろしく。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/13 13:03 +9:00
Subject:グループ会議、延期します。
菅原課長
明日のグループ会議、都合により延期します。次回の日時については、追って連絡します。
P.S.
例によって、吉田部長の気紛れだよ。つまんない仕事を押し付けられたんだって?ご愁傷さま。エリート課長も辛いね。
昨日、樫山恵美と飲んだらしいね?どう、彼女?
From:時雄 To:恭子
Date:2010/7/13 19:01 +9:00
Subject:ママへ
これから帰ります。
From:高松祥之 To:菅原時雄
Date:2010/7/13 20:12 +9:00
Subject:Re:Re:お久しぶり
高松です。
それじゃ、そういうことで、よろしく。藤田にも声をかけておきます。来れないかもしれないけど。バーベキューの候補地は、こっちで調べておくよ。
じゃ、恭子さんと茉莉ちゃんにもよろしく。
From:総務課 田口 To:菅原課長
Date:2010/7/14 9:05 +9:00
Subject:人事考課面談について
菅原課長
総務課田口です。来月の人事考課面談について、課長が担当されているセクションの面談スケジュールが提出されておりません。よろしくお願いします。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/14 10:27 +9:00
Subject:(未設定)
暑いね。そんだけ。
From:(株)トゥモロー To:菅原課長
Date:2010/7/14 10:31 +9:00
Subject:Re:Re:Re:Re:システム連携のスケジュールについて
東機システムズ株式会社 菅原課長
いつもお世話になります。(株)トゥモローの中道です。
さて、東機製作所様とのシステム連携の件ですが、弊社側のスケジュールが確定しましたので、ご連絡いたします。詳細につきましては、添付のエクセルファイルをご覧ください。遅くなりましたことをお詫び申し上げます。
添付ファイル中にも記載してあります通り、大変急でもうしわけないのですが、連携のテストを9月6日(月)より開始とさせていただきたいと思います。
重ね重ねご迷惑をおかけしますが、以上、よろしくお願いもうしあげます。
From:(株)トゥモロー To:菅原課長
Date:2010/7/14 10:44 +9:00
Subject:Re:Re:Re:Re:Re:Re:システム連携のスケジュールについて
東機システムズ株式会社 菅原課長
いつもお世話になります。(株)トゥモローの中道です。
ご連絡いたしましたシステム連携のスケジュールは、案ではなく、これでいきましょうというものです。かなりタイトな日程であることは、当方も承知しておりますが、何分他社さんとの兼ね合いもありますので、東機製作所様だけを特例とするわけにもまいりません。そこのところをご了解いただければ幸いです。
今回のスケジュールにつきましては、弊社の都合により、ご迷惑をおかけしておりまして、大変もうしわけなく思っております。
なお、このスケジュールにつきましては、事前に、当社の原口が御社の吉田部長と打合せさせていただいたと聞いております。ご確認ください。
From:吉田彰俊 To:菅原課長
Date:2010/7/14 11:06 +9:00
Subject:Re:システム連携スケジュールの件
菅原課長
(株)トゥモローとのシステム連携については、先日、先方の原口課長と会って、先方の状況について説明を受けています。
今回のシステム連携の日程については、先方の事情を飲みこんであげてください。止むを得ない都合もあると思います。でも、プロジェクトの進捗については、君のグループなら問題ないでしょうから、後は任せますので、よろしく。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/14 14:20 +9:00
Subject:飯、食ったのか?
なにカリカリしてんの?また、吉田部長かよ。
かわいそうねぇ、菅原ちゃん。寂しくなったら僕のところにおいで。一緒に飲んであげるから。
あ、そうだ。飲みに行く時は、樫山恵美も誘おうぜ。
「参ったよ。山手線がさ、遅れてて。すまんね。え?うん、一体なんだろうね。ここの所、しょっちゅうだ。『後続の電車が遅れておりますので、時間調整をいたします。』だよ。なんとなく納得いかないよな、あれ。いや、駅に停まってる間に、次から次に乗ってくるから、もうギュウギュウになって、その内、気持ち悪くなる奴がでてきて、今度は『気分の悪くなられたお客様がいらっしゃいますので、しばらく停車いたします。』だよ。どんどん遅れてきちゃってさ。
え?車内アナウンスの真似が上手い?お前、人の話しのどこを聞いてるんだよ。まったく。
遅れる電車にも腹が立つけど、乗ってる客にも腹が立つね。混んでるってのに、携帯だのゲームだのを持ちだしてさ。顔の真ん前にかかげて、周りなんかおかまいなしだもんな。どうなってるんだろうね、あれは。お前、混んでる時に、携帯とかする?しないよなぁ。そんなにメールしたいか、ゲームしたいか、だよ。そもそも、俺は、携帯だとかゲーム機の小さい画面が嫌いなんだ。もう狭っ苦しくてさ、息がつまりそうなんだよ。それにね、目が痛くなって、駄目だ。そいでもって、あの格好だよ。携帯やゲーム機の画面に見入ってる格好、どう思う?いい格好かね?携帯とかゲーム機のメーカーの奴らは、もう少し考えたほうがいいよな。あんな格好した奴が街中にあふれて、美しいか?なんて言うのかなあ、みんなちょっと寄り目になってさ。美人もイケメンも台無しだぜ。小さい箱を後生大事に抱えて、御託でも聞くみたいにのめりこんで、そんな顔を他人の目にさらして、平気なのか。一番恥かしい所が剥きだしだ、っていうのは誰の言葉だったっけな?それなのに、恥かしい顔が呆けた様子をさらしているにもかかわらず、どいつもこいつも全然気づいていないんだ。そんな街の風景を作りだしてんだぜ。携帯のメーカーは、さ。ゲーム機屋さんは、さ。
え?相変わらずかよ。はいはい。こればっかりはね、治らないんです。すんませんですな。
どう、そっちは。忙しい?景気は?どこも同じだね。俺のとこも似たようなものだよ。ほら、不景気な顔してるだろ。変わんない?そうかなぁ。人間的な深みは増したと思ってるんだが。へへへ。
お前さ、そう言えば、この前どうして携帯にでなかったんだよ。飲んでたって?誰と?いやいや、俺様以外にお前さんに飲む相手がいるのか、と思って。いいじゃんよぉ、教えてくれたって。だから、誰とよ。会社の部下?女か?お、図星。おいおい、これは只事じゃないね。とうとう菅原の君も、鬼畜の仲間入りか。そんなんじゃない、って、どんなんだよ。そんなもこんなも、俺はまだ何も言っちゃいないよ。話せ、白状しろ。その娘、綺麗なのか?写真がある?お前なぁ、なんでそんなもの持ってるの?ますます怪しい。課の連中と記念写真?もうちょっとましな言い訳したら。わかった、わかった。わかったから、見せろよ。ほら、携帯をよこせって。
どれどれ。ああ、この右端の?おお。いい女じゃん。う〜ん。なんか、こう、独特の雰囲気だね、これは。恭子さんとは違うタイプだな。え?恭子さんを引き合いに出すな?いいだろう、そんなこと。俺の勝手だね。俺はなあ、血の涙を流して彼女を諦め、身を引いたのだ。何かにつけても彼女を思い出す権利があるというものだぜ。あの恭子さんの夫の座にのうのうとふんぞり返っている菅原君にとやかく言われたくないね。なんだよ。お前はな、俺がどれだけ恭子さんのことを愛していたか、知ってるだろ。だろ?ああ、はいはい。お前にとっては昔のことかも知れないけど、俺にとっては、まだ終ってないの、彼女のことは。ええ、ええ、そうですよ。ひきずってますよ。ずるずるだよ。だからな、これだけは言っておくがな、お前らにもしもの事があったらな、恭子さんに言っちゃうよ、俺は。プロポーズしちゃうよ。
わかったよ。声がでかくなるのもしかたないだろう。わかったよ。
でさ、なんでその女と二人で飲むことになったの。忘れてないよ。大変だもん。事と次第によっては、恭子さんに告げ口しなけりゃならんからな。え、菅原君、吐いてしまいなさいよ。楽になるよ。いや、変な勘繰りしてるわけじゃないさ。お前の事だから、何か事情があると思ってるの。そうだぜ。何年の付き合いなんだよ。憧れの人を譲る友情を何だと思ってんのさ。何があった。
ふ〜ん。ああ、そうか、いわゆる問題有りってやつか。前の部署でもゴタゴタしてたんだ。情緒面ね。課長はいろいろな面倒みなきゃならないなぁ。仕事だけじゃ収まりつかないよなぁ。しかし、美人なのに。関係ないか。セクハラ?ははは、そうだね。怖いね。
でも、分かる気がするな。もう一度写真見せてみな。うん。確かに。このさ、独特の雰囲気ね。化粧を決めてるのに、どこか粉吹いたみたいな、な。ちょっと脆そうな、な。そうだぜ。共通してあるんだよ、そういう雰囲気がね。笑ってろよ。」
From:恭子 To:パパ
Date:2010/7/16 21:17 +9:00
Subject:Help!
パパへ。パソコンが固まって、動かないんだけど。どうしよう?このままにしておきますので、よろしくね。
From:時雄 To:恭子
Date:2010/7/16 22:49 +9:00
Subject:ママへ
高松と飲んでました。これから帰ります。パソコンの件、帰ってからやっておきます。そのままで、先に寝ててください。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/16 22:51 +9:00
Subject:こんばんはー!
菅原課長
樫山です。こんばんは。
もうご自宅ですか?
今日は、課長がいそいそとお帰りになったので、気になってメールしちゃいました。お友達と会ってらっしゃったのですか?
先週、課長とお話しできて、あんなに楽しかったのに、今週は、お忙しいようで、殆どお話しできないのがちょっと寂しい感じです。また、飲みに誘ってください。
トゥモローさんの件、頑張ります。
では。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/16 22:51 +9:00
Subject:Re:Re:こんばんはー!
うわー、課長から返事がいただけるなんて!ウレシー!
今、私、にっこにこして、ホッとしてるんです。さっきのメール、失礼だったかなぁって、送信してから凹んでたんです。
でも、課長は、本当に優しいんですね。課長の部署に配属されて、よかったという気持ちでいっぱいです。
明日も仕事、頑張るぞー!って、明日から三連休でしたね。何の予定もないから、忘れてました。気を取り直して、来週も、頑張ります。
ではでは、お休みなさい。
奥様とお嬢さんにもよろしくお伝えください。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/19 16:40 +9:00
Subject:来週、お時間をいただけないでしょうか。
菅原課長
樫山です。
お休みのところ、申し訳ありません。
来週、お時間をいただけないでしょうか。個人的なことなのですが、課長に話しを聞いていただきたいのです。このままでは、どうかなってしまいそうです。わがままなお願いですが、どうかお時間をください。お願いします。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/19 20:01 +9:00
Subject:Re:Re:来週、お時間をいただけないでしょうか。
菅原課長
樫山です。
すみません、来週のことですけれど、忘れてください。
もう大丈夫です。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/20 10:18 +9:00
Subject:憤慨
ちょっとさ、聞いてくれよ。納品の前日になって、二日分のデータを作れだとよ。なんだあの会社は。信じられないぜ。
菅原課長さま、何とか言ってやってくださいまし。あの、馬鹿会社の馬鹿部長に。
From:恭子 To:パパ
Date:2010/7/20 17:00 +9:00
Subject:パパへ
茉莉です。
今晩、早く帰ってきますか?
From:時雄 To:恭子
Date:2010/7/20 17:05 +9:00
Subject:Re:パパへ
茉莉へ。
会社の打合せで、少しだけ、遅くなりそうです。ごめんね。
From:時雄 To:恭子
Date:2010/7/20 21:21 +9:00
Subject:ママへ
会議が長引いて遅くなりました。無理なことを言ってくるクライアントがいて困ります。でも、今、終りましたので、帰ります。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/20 22:38 +9:00
Subject:ありがとうございました。
菅原課長
樫山です。
今日は、本当にありがとうございました。私、わがままな女ですね。反省してます。
でも、課長に話しを聞いてもらえたので、心が晴れ晴れとした気分です。
ありがとうございました。
From:高橋明宏 To:菅原課長
Date:2010/7/22 11:07 +9:00
Subject:システム連携の進捗について
菅原課長
(株)トゥモローとのシステム連携の進捗についてですが、予定より遅れています。ちょっと立て直しが必要かと思います。打合せの時間を下さい。
それから、樫山さんの担当分なんですけど、決められたルールに従って進捗を報告するように指導してください。仕事のクォリティは問題ないんですが、どうも自分勝手で困ります。それと、チームのメンバーに対する接し方にも、もう少し気をつかって欲しいと思います。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/22 13:05 +9:00
Subject:菅原大明神殿
梅雨はもう終ったんだっけ?なんだい、この暑さ。どうにかして、菅原の神様。
営業部の岩瀬ちゃん、辞めるらしい。赤ちゃんできちゃったから。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/22 13:08 +9:00
Subject:Re:Re:菅原大明神殿
俺じゃないよ。営業の藤田だよ。岩瀬ちゃんは藤田と結婚するんだな。9月に辞めるんだってよ。
From:高橋明宏 To:菅原課長
Date:2010/7/22 14:19 +9:00
Subject:Re:Re:システム連携の進捗について
菅原課長
樫山さんの言動については、以前に口頭でも報告してあります。報告書にしますか?
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:20107/23 10:10 +9:00
Subject:Re:相談
菅原様
樫山恵美のことなら、少しは噂を聞いてるよ。メールで書くのも何だけど。菅原大明神のお膝もとでも火の手をあげましたか?
彼女、感情の起伏が激しいんだよ。情緒不安定の面もあるらしい。仕事の方は問題ない、と言うより上々だと。その辺りは、菅原さんのほうがご存知でしょう。噂だけから判断するに、依存心が強いんじゃないかな。彼女の口のきき方も、ちょっと澄ましたところがあって、人を責めるような感じがあるよ。でも、噂だから、本人とじっくり話し合うのが王道でしょう。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/23 21:07 +9:00
Subject:ごめんなさい。
菅原課長
樫山です。
今日は、ご指導ありがとうございました。ご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありません。本当にごめんんなさい。
会議室で、あんな態度をとってしまって、課長に不貞腐れていると思われたのじゃないかと心配です。実は、ショックで体が固くなっていたのです。それで、満足に返事をすることもできなかったんです。私のこういうところが、誤解されてしまうんですね。反省しています。
だから、私は、課長のご意見に不満だったのではありません。逆です。課長のお話しがじわって、深く染み込んだ感じです。
周りの人にどう思われてるか、課長から聞けてよかった、と思っています。転ぶ前に手を差し伸べてもらった気がします。きっと、菅原課長でなければ、私の心には届かなかったと思います。例えば、3グループの大竹リーダーなんかだったら、私は絶対受け入れられなかったでしょう。でも、菅原課長だから、素直に聞くことができました。
私って、イヤな女だったんですね。友達もできないし(お昼休みには、一人でお弁当を食べているんですよ…涙)、男の人達の目もなんだかギスギスしてる気がして、どうしてか分からなかったんですが、これでハッキリしました。課長にズバリと心臓をつかれて、血の気がひくほどショックでしたけれど、でも本当の姿を知ることができました。
私、明日から、生れ変ります。ずっと強い女になります。心配しないでください。あ、心配なんかしてません?とにかく、明日からは、樫山恵美改造プロジェクトの発足です。仕事も頑張ります。課長に褒めていただける女になるために、努力します。ダイエットもしなくちゃ。しばらくは、ご迷惑をおかけするかもしれませんが、見守っててくださいね。
だから、今日は、本当にごめんなさい、&ありがとうございました。
P.S.
ひとつだけお願いがあります。
こうして課長にメールすることを許可してくださらないでしょうか。
課長に私の気持ちを知っていただかないと、駄目になってしまいそうな気がするんです。今も、私、折れてしまいそうなんです。
だから、メールだけでいいですから、許してください。
P.S.のP.S.
小指の包帯ですが、ちょっと包丁で切ってしまいました。ご心配、ありがとうございます。でも、大丈夫です。
From:高松祥之 To:菅原時雄
Date:2010/7/25 20:33 +9:00
Subject:Re:Re:バーベキューについて
高松です。
なんだよ、秋ケ瀬公園じゃ、問題あるの?
恭子さんにも了解とってあるんだからね。茉莉ちゃんも喜んでくれたぜ。
バーベキュー・グリル等々はこちらで用意するから、ターフとか椅子とかをお願いします。いつも通りで。
恭子さん、きれいだなぁ(遠い目)。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/25 22:49 +9:00
Subject:夜遅く、すみません。
菅原課長
夜分、申し訳ありません。
今日、足を怪我してしまいました。足の小指を家具にぶつけて、腫れてしまったのです。ジンジンしてます。なので明日、少し遅刻します。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:20107/27 10:42 +9:00
Subject:やったね!
おい、見てたぞ。よくぞ言ってくれたよ。さすが、菅原課長。拍手。
吉田部長の顔、見たか。目を、こぼれそうに剥いて、顔が真っ青だったぜ。
トゥモローなんか糞くらえ、だって。製作所の連中も、システム連携なんざどうでもいいと思ってるさ。
うちのチームでは、菅原課長万歳のメールが回ってるって。
俺たち応援してるからな。でも、左遷されてもついて行かない(笑)。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/27 23:11 +9:00
Subject:こんばんは。
菅原課長
こんばんは、樫山です。
今日は大変でしたね。課長と吉田部長のバトル、怖かったぁ。課長の真剣な表情、すごく迫力があって、びっくりしました。
吉田部長は、ぶるぶる震えてましたよ。あんな、横暴で自分勝手で、がさつな奴、自業自得なんです。
私が前のグループに在籍していた時、吉田部長にこう言われました。『女というだけでもお荷物だなんだから、せいぜい人に迷惑をかけないよう、気をつかえ』。信じられますか。あいつは、人間として最低です。下劣な男です。人の上に立つ器じゃないと思います。本来の部長職としての仕事を全うしていないくせに、権力だけふりかざしている。
今回のトゥモローさんの件も、はっきり言って公私混同もいいところではないですか。
今のままでは、課長がかわいそうです。
吉田部長は、今回の件を根に持って、陰険にしかえししてくると思います。どんな手を使ってくるかと想像すると、おぞましくて身の毛がよだちます。あのクソ部長、死んでしまえばいいのに。死ね。死ね。
課長、吉田部長が何をしてきても、負けないでください。闘ってください。私も闘います。課長の為に、吉田部長に引き裂かれても構いません。私達の赤い血で吉田部長の不正を染めあげて、白日のもとに晒してやりましょう。そうすれば、社長がそれを見て、必ず正義が執行されると思います。
課長、負けないでくださいね。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/28 8:20 +9:00
Subject:樫山です。電車遅延で遅れます。
菅原課長
樫山です。山手線が止まっているようですので、遅刻すると思います。
よろしくお願いします。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/29 7:02 +9:00
Subject:遅れます。
菅原課長
樫山です。
今朝、ちょっとお腹が痛いので、午前中、病院に寄ってから出社させてください。
よろしくお願いします。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/29 13:08 +9:00
Subject:ご報告
吉田部長、あんたからもらった一発が相当こたえたみたいだぜ。取り巻きに、あんたの機嫌を聞いてたってよ。すごいね、菅原課長。次の部長は、決まったね。
お節介かも知れないけれどさ、手の打ちどころを考えてた方がいいと思うよ。吉田部長もまだまだ使える人だし。俺だったら、こちらから頭下げるけれど、ね。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/29 13:19 +9:00
Subject:Re:Re:ご報告
吉田部長の取り巻きだと思われたなら、心外だな。
俺が冷や飯くってるのは誰のせいだと思ってるの?吉田さんにまんまと嵌められたんだぜ。
それは、ともかく、菅原課長が頭下げに行けば、すべて丸く収まると思うよ。菅原さん、ちゃんと考えてんだな。えらいよ。
ところでさ、週末は?また、家族サービスですか。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/29 13:24 +9:00
Subject:Re:Re:Re:Re:ご報告
秋ケ瀬公園でバーベキュー?!
ひょっとして熱中症で自殺する気ですか?
あそこ、暑いだろう。信じられん。奥さん、よくOKだしたね。
From:菅原恭子 To:高松さん
Date:2010/7/29 18:38 +9:00
Subject:こんばんは。土曜日のバーベキューの件です。
高松さん。恭子です。
こんばんは。
土曜日のバーベキューの件ですけど、ちょっと心配な事がありまして、メールしました。
お友達の奥さんが、先週の日曜日に秋ケ瀬公園に行ったらしんですが、この天気で、暑くて大変だったそうなんです。大人だけではなく、特に小さい子が、参ってしまったと聞きました。高松さんのところの秋ちゃんも、うちの茉莉も、そんなに小さい子ではないから、問題ないかな、と思いますが、ほら、あそこは日陰がないでしょう?熱中症対策とか考えておかないと駄目なんじゃないかと思って。
私も日焼けは怖いし。もう、若くないから。ね。
From:高松祥之 To:菅原恭子
Date:2010/7/29 18:44 +9:00
Subject:Re:こんばんは。土曜日のバーベキューの件です。
恭子さん。
高松です。メールありがとう。
わかりました。秋ケ瀬公園は、たしかに日陰がないですよね。7月にあそこでバーベキューは無謀かもしれません。秋ケ瀬公園、やめましょう。別の場所を探します。OK、ご心配なく。
恭子さんは、いつまでも若いですよ。
From:高松祥之 To:菅原時雄
Date:2010/7/29 19:03 +9:00
Subject:Re:計画変更
高松です。
そういうこと。だってぇ、恭子さんの提案だぜ。もう最重要事項だよ。
ま、なんとかするから。ご心配なく。
From:高松祥之 To:菅原時雄
Date:2010/7/29 19:07 +9:00
Subject:Re:計画変更
高松です。
なんだよ。俺達の仲だろう。恭子さんと連絡とったら悪いのか。
あれ、嫉妬してるの?
心配だったら、早く帰りなさい。
早く帰って、美人の奥さんの話しに耳を傾けるんだな。恭子さん、嘆いてたぜ。最近、怖い顔して、会社の問題社員の話しばかりする、って。問題社員って、あれか?この前二人きりで飲んだ女か?問題あるのは、菅原君の方じゃないの?
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/30 23:01 +9:00
Subject:残念でした。
菅原課長
樫山です。
こんばんは。
今日は、残念でした。
菅原課長が、吉田部長と笑顔でお話しされているところを見たからです。
私の本当の気持ちを書きます。なんだか、裏切られた気分です。
でも、きっと菅原課長はいろいろ考えられてるんですよね。
私ひとり、眉を吊り上げて、馬鹿みたい。なんて。
菅原課長、私を置いてけぼりにしないでください。
では、また来週。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/8/2 9:01 +9:00
Subject:体調不良で、遅れます。
菅原課長
樫山です。
具合が悪いので、遅れます。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/8/3 8:11 +9:00
Subject:遅刻します(泣)
菅原課長
樫山です。
今日も、具合が悪いので、遅れます。申し訳ありません。
From:菅原恭子 To:高松さん
Date:2010/8/5 10:17 +9:00
Subject:先日はありがとうございました。
高松さん。恭子です。
土曜日は、ありがとうございました。とっても楽しかった。
あんな所があるんですね。全然知らなかった。涼しくて、水遊びもできて、茉莉もとっても喜んでました。
どこで知ったんですか。
また遊びに行きましょうね。
涼子さんと秋ちゃんにもよろしくお伝えください。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/8/6 11:27 +9:00
Subject:お休みさせてください。
菅原課長
樫山です。
熱があるようなので、今日はお休みさせてください。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/8/6 11:45 +9:00
Subject:Re:Re:お休みさせてください。
菅原課長
樫山です。
ありがとうございます。
起き上がれたら、午後にでも病院へ行ってみようと思います。
From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/8/9 6:13 +9:00
Subject:お休みします。
菅原課長
樫山です。
具合が悪いので、お休みします。
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/8/13 13:01 +9:00
Subject:Re:樫山さんの事
火曜日から無断欠勤なのか?!
そう言えば、最近見かけないなあと思ってたけど。無断欠勤とは。そんな女の子だったっけ?病気?
電話にはでないの?
From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/8/13 13:24 +9:00
Subject:Re:Re:樫山さんの事
おいおい、家庭訪問じゃあるまいし、彼女の家に行くつもりかい?
電話にでるんなら、ちゃんと連絡を会社に入れて、病院へ行って治療するように指導するしかないんじゃないの?いくら管理職だからといって、家に押し掛けるのは…、
2010-09-29 21:36
とび色の髪 [小さな話]
世界が塗り替えられたのだと思った。一撃で、奇跡の技によって。
瞬くと、元の世界に戻っていた。あの、背の高い女の子の、珍しい髪の色に不意をつかれたのだ。あれは、何と呼ぶのだろう。
それにしても、その子のあたりだけ、陽の光が生き返っているような気がした。夏休みの間、うんざりするほど積もった蝉の声の灰から、七月の、梅雨を打ち負かしたばかりの太陽が甦ったようだった。
女の子の側には、中年の男の人が立っていて、その人と母が話していた。三人は、マンションの駐車場の角に立っていた。男の人の視線が僕の方に少し逸れると、母がそれに気付いてこちらを向いた。かすかに躊躇いの色を見せてから、僕を手招きする。自転車を押して近付いていく間、女の子がこちらを見ないでいてくれたので、少し気が楽だった。
「息子の達郎です。」
「こんにちは。」
「堤です。初めまして。」僕に向かって軽く頭を下げた人は、僕と同じくらいの背丈で、女の子よりは十センチ程低い。オールバックに撫でつけた長めの髪、ノーネクタイの開襟シャツ。ベージュのチノパンにブラウンのデッキシューズ。ここいら辺では見掛けないタイプの大人だ。ひょいひょいとゴルフへでも行きそうだが、日焼けはしていない。広告写真から切り抜いたようなおかしさがある。それでいて、僕に据えられた視線が真っ直ぐに問い掛けてきて、ぐいと引き込まれる。今にも泣きだすんじゃないかと心配したくなる。なんだか、こちらが恥かしくなるくらい、どこか違う人だ。
「お嬢さんと同級生になりますね。」
母の言葉遣いが聞き慣れなかったので、思わずその横顔を見てしまった。堤と名乗った人は、ハッとしてから苦笑し、女の子を紹介した。
「娘のリーサです。9月から笹原高校の2年生です。リーサ、こちら本城達郎君。」
リーサと呼ばれた女の子が、僕に向かって少しだけ微笑んだが、僕の方はちらりと視線を走らせるのが精一杯だった。それでも、僕は見た。高々となりつつある太陽の眩しさに、女の子はわずかに眉根を寄せ、その下の瞳が深い影に沈んでいた。それから、鈴の音が曲線となったきれいな頬があった。その頬も、ほっそりとした首も、白い。ただの白さではない。僕には、生きている蝋燭の色に見えた。
女の子は、シンプルな綿のシャツと淡い水色のロングスカートを着ていた。百八十センチ近くある背丈のせいか、スカートのウエストの位置があんなに高いと感じた。
そしてあの髪が、緩やかなカーブを描いて顏を囲み、燃えるように、肩から鎖骨の少し下のあたりまで流れていた。
「同じクラスになれるといいわね。」母が女の子に向って話しかけたが、女の子の方は微笑んだままで、男の人へ視線を投げた。
「初めは日本語の特別授業になるそうです。」
「それは、大変ねぇ。」
「本城君、仲良くしてやってください。こちらでは、まだ友達がいないから。」
瞬くと、元の世界に戻っていた。あの、背の高い女の子の、珍しい髪の色に不意をつかれたのだ。あれは、何と呼ぶのだろう。
それにしても、その子のあたりだけ、陽の光が生き返っているような気がした。夏休みの間、うんざりするほど積もった蝉の声の灰から、七月の、梅雨を打ち負かしたばかりの太陽が甦ったようだった。
女の子の側には、中年の男の人が立っていて、その人と母が話していた。三人は、マンションの駐車場の角に立っていた。男の人の視線が僕の方に少し逸れると、母がそれに気付いてこちらを向いた。かすかに躊躇いの色を見せてから、僕を手招きする。自転車を押して近付いていく間、女の子がこちらを見ないでいてくれたので、少し気が楽だった。
「息子の達郎です。」
「こんにちは。」
「堤です。初めまして。」僕に向かって軽く頭を下げた人は、僕と同じくらいの背丈で、女の子よりは十センチ程低い。オールバックに撫でつけた長めの髪、ノーネクタイの開襟シャツ。ベージュのチノパンにブラウンのデッキシューズ。ここいら辺では見掛けないタイプの大人だ。ひょいひょいとゴルフへでも行きそうだが、日焼けはしていない。広告写真から切り抜いたようなおかしさがある。それでいて、僕に据えられた視線が真っ直ぐに問い掛けてきて、ぐいと引き込まれる。今にも泣きだすんじゃないかと心配したくなる。なんだか、こちらが恥かしくなるくらい、どこか違う人だ。
「お嬢さんと同級生になりますね。」
母の言葉遣いが聞き慣れなかったので、思わずその横顔を見てしまった。堤と名乗った人は、ハッとしてから苦笑し、女の子を紹介した。
「娘のリーサです。9月から笹原高校の2年生です。リーサ、こちら本城達郎君。」
リーサと呼ばれた女の子が、僕に向かって少しだけ微笑んだが、僕の方はちらりと視線を走らせるのが精一杯だった。それでも、僕は見た。高々となりつつある太陽の眩しさに、女の子はわずかに眉根を寄せ、その下の瞳が深い影に沈んでいた。それから、鈴の音が曲線となったきれいな頬があった。その頬も、ほっそりとした首も、白い。ただの白さではない。僕には、生きている蝋燭の色に見えた。
女の子は、シンプルな綿のシャツと淡い水色のロングスカートを着ていた。百八十センチ近くある背丈のせいか、スカートのウエストの位置があんなに高いと感じた。
そしてあの髪が、緩やかなカーブを描いて顏を囲み、燃えるように、肩から鎖骨の少し下のあたりまで流れていた。
「同じクラスになれるといいわね。」母が女の子に向って話しかけたが、女の子の方は微笑んだままで、男の人へ視線を投げた。
「初めは日本語の特別授業になるそうです。」
「それは、大変ねぇ。」
「本城君、仲良くしてやってください。こちらでは、まだ友達がいないから。」
2010-06-30 20:25
祖母と孫娘〈十二〉 [小さな話]
〈十二〉
右手に力が入らない。水希は息も満足につけずに、振り回されていた。両手に巻き付けたコードを引き絞ろうにも、男の背中にしがみついているのが精一杯だった。吉野智=小松秋男の体から立ち上る腐敗臭が水希の鼻を刺激する。小松秋男の体に触れている部分が、火傷しそうに熱い。背中の痛みも激しくなる一方だ。ふっと気が遠くなったら、殺されるという恐怖感に心臓が悲鳴を上げた。
その時、小松秋男が横を向いて、ぜいぜいと息をつきながら言った。
「がぁ、離せ。離さないと、お前の婆をごうじでやずずぅ。」
小松秋男は、水希を背負ったまま真子に近付き、倒れている真子の腹を踏みつけた。
真子が声にならない呻きをあげた。ぐぐっと体を縮める。
小松が真子を踏みつける度に上下に揺さぶられながら、水希は真子に呼び掛けたかった。しかし、今叫ぶと力が抜けて振り落され、二人とも殺されると思い、目を閉じ、真子の方を見ないようにして我慢した。体が、(早く、早く、これを止めて、もう勘弁して)と懇願を繰り返している。
小松は何度も真子を踏みつけた。
真子は、強烈な痛みから逃れようと身を捩り、そのせいで小松の足は、真子の腰、腿、胸、背中と所かまわず踏みつけた。真子の足の折れた部分に目をつけると、水希を背負ったまま跳び上がって、両足でそこを直撃した。真子の口から信じられないほどの血を吐く悲鳴があがった。真子の左足はギプスが砕け、膝と踝の中間が破れて白い骨が見えていた。
右手に力が入らない。水希は息も満足につけずに、振り回されていた。両手に巻き付けたコードを引き絞ろうにも、男の背中にしがみついているのが精一杯だった。吉野智=小松秋男の体から立ち上る腐敗臭が水希の鼻を刺激する。小松秋男の体に触れている部分が、火傷しそうに熱い。背中の痛みも激しくなる一方だ。ふっと気が遠くなったら、殺されるという恐怖感に心臓が悲鳴を上げた。
その時、小松秋男が横を向いて、ぜいぜいと息をつきながら言った。
「がぁ、離せ。離さないと、お前の婆をごうじでやずずぅ。」
小松秋男は、水希を背負ったまま真子に近付き、倒れている真子の腹を踏みつけた。
真子が声にならない呻きをあげた。ぐぐっと体を縮める。
小松が真子を踏みつける度に上下に揺さぶられながら、水希は真子に呼び掛けたかった。しかし、今叫ぶと力が抜けて振り落され、二人とも殺されると思い、目を閉じ、真子の方を見ないようにして我慢した。体が、(早く、早く、これを止めて、もう勘弁して)と懇願を繰り返している。
小松は何度も真子を踏みつけた。
真子は、強烈な痛みから逃れようと身を捩り、そのせいで小松の足は、真子の腰、腿、胸、背中と所かまわず踏みつけた。真子の足の折れた部分に目をつけると、水希を背負ったまま跳び上がって、両足でそこを直撃した。真子の口から信じられないほどの血を吐く悲鳴があがった。真子の左足はギプスが砕け、膝と踝の中間が破れて白い骨が見えていた。
2010-04-27 07:33
祖母と孫娘〈十一〉 [小さな話]
〈十一〉
真子はシーツを裂くと、それで鉈を巻いた。何の役に立つか心許なかったが、それでも気だけは休まるようだったのだ。足の自由がきかず、年も取った自分に、あの時のような恐しい真似ができるとは思えなかった。「お守り代りたい。」そう呟くと、鉈を膝の上に置いた。
さっきから、建物全体に低い軋みが轟いている。何か様子が変わったようだった。こういう時は急がないと大変なことになりそう、と思ったものの、一人ではどうしようもない。吉野を待つしかなかった。
廊下を通りすぎる笑い声が聞こえる。病院全体が避難するなんて、どこか遠い所で起きている事に思える。ましてや、真子が恐れているものなど、自分にしか見えない妄想なのではないだろうか。いや、見えてすらいない。恐怖の実体は、まだ姿を現わしていない。老婆の妄想。(ということは、ボケが始まったとばい。)真子は少しだけ笑った。
次に真子の心を占めたのは、孫の水希の心配だった。怪我の手当に行ってから、もう三十分以上は経つ。お腹も空いているだろうに、どうしたろうか、と心配した。(あの子は、私に似ている。あの子の方が美人やけど、性格は近しいものを感じるとよ。あの子がしゃべっているところは、まるで高校生の自分がしゃべっているのを見とるようやもんね。でも、違うところもある。あの子の方が、明るいし、洗練されとるよ。何よりも違うのは、あの事件に会っとらんということ。)あれ以来、自分の生活は変ったのだ、と真子は思った。では、あの事件がなかったら、その後の自分の人生は今と違っていたのだろうか。それは想像もつかない。今さら考えたところでどうしようもない。昏い荒野をとぼとぼ一人歩くイメージは変りないという気がする。何かが起こるという予感すら同じなのではないだろうか。あの事件がなかったとしたら、何が起きるというのだろう。それでも起きるのだ。確かに起きるのだ。死という出来事が起きるのだ。その死は、夫を真子から奪った。やがて、自分のとぼとぼ歩きにも終止符が打たれ、自分もこの世界から奪われてしまうのだろう。この出来事は残念なことに水希にもやって来る。(でも、水希ちゃん。あなたには時間がたっぷりある。まだまだ先の話し。それまでは、思う存分楽しむことたいね。)
人の気配がして、入口を見ると、車椅子を押した吉野が笑いながら入ってきた。
真子はシーツを裂くと、それで鉈を巻いた。何の役に立つか心許なかったが、それでも気だけは休まるようだったのだ。足の自由がきかず、年も取った自分に、あの時のような恐しい真似ができるとは思えなかった。「お守り代りたい。」そう呟くと、鉈を膝の上に置いた。
さっきから、建物全体に低い軋みが轟いている。何か様子が変わったようだった。こういう時は急がないと大変なことになりそう、と思ったものの、一人ではどうしようもない。吉野を待つしかなかった。
廊下を通りすぎる笑い声が聞こえる。病院全体が避難するなんて、どこか遠い所で起きている事に思える。ましてや、真子が恐れているものなど、自分にしか見えない妄想なのではないだろうか。いや、見えてすらいない。恐怖の実体は、まだ姿を現わしていない。老婆の妄想。(ということは、ボケが始まったとばい。)真子は少しだけ笑った。
次に真子の心を占めたのは、孫の水希の心配だった。怪我の手当に行ってから、もう三十分以上は経つ。お腹も空いているだろうに、どうしたろうか、と心配した。(あの子は、私に似ている。あの子の方が美人やけど、性格は近しいものを感じるとよ。あの子がしゃべっているところは、まるで高校生の自分がしゃべっているのを見とるようやもんね。でも、違うところもある。あの子の方が、明るいし、洗練されとるよ。何よりも違うのは、あの事件に会っとらんということ。)あれ以来、自分の生活は変ったのだ、と真子は思った。では、あの事件がなかったら、その後の自分の人生は今と違っていたのだろうか。それは想像もつかない。今さら考えたところでどうしようもない。昏い荒野をとぼとぼ一人歩くイメージは変りないという気がする。何かが起こるという予感すら同じなのではないだろうか。あの事件がなかったとしたら、何が起きるというのだろう。それでも起きるのだ。確かに起きるのだ。死という出来事が起きるのだ。その死は、夫を真子から奪った。やがて、自分のとぼとぼ歩きにも終止符が打たれ、自分もこの世界から奪われてしまうのだろう。この出来事は残念なことに水希にもやって来る。(でも、水希ちゃん。あなたには時間がたっぷりある。まだまだ先の話し。それまでは、思う存分楽しむことたいね。)
人の気配がして、入口を見ると、車椅子を押した吉野が笑いながら入ってきた。
2010-04-24 22:49
祖母と孫娘〈十〉 [小さな話]
〈十〉
窓の外は、藍色を濃くしている。松葉杖でなんとか立ちあがり、さんざん苦労して窓辺に近づいた真子は、向うにある病棟の廊下を見ていた。館内放送の後、廊下を右往左往する人の数が増えている。避難が始まっているのだ。それでも、それほど沢山の入院患者がいるわけではないので、どこかのんびりした感じが漂っていた。
若い医者が、カルテのようなファイルを腕一杯に抱えて行く。患者が患者の車椅子を押して通る。ダンボール箱を抱え、上体が少し後ろに反った看護師の口がぱくぱくと動く。「失礼します。」と言っているのだろう。その看護師は車椅子を追い越して行った。車椅子の人たちも退場し、そして、人の姿が一時絶える。
宵闇の毒が深まっていく空を背景に、病棟の廊下は、出演者を待つ舞台に似て、騒がしそうに浮き上がって見えながら、物悲しさが漂っていた。
その光の加減に真子は、夫が使っていた寝室の目覚し時計を思い出した。それは、横にした百科事典の一巻のような目覚まし時計で、電気で動く機械式だった。前面に窓があり、そこから数字の描いてある小さな板が見えていた。その板は、歯車で回転する軸にぐるりと取りつけてあって、ロロデックスのように、軸が回転すると奥から迫り上がって来た板がぱたぱたと倒れて、時間を表わす数字が変るようになっていた。その窓は、暗闇でも時間が読めるように小さな橙色の照明がつき、それが仕掛け人形の舞台を覗きこんでいる気分にさせるのであった。夫はその目覚し時計を寝室の枕元に置いて、四十年は使っていた。夫が勤めている間は、真子もその時計を使っていた。明け方一度目を覚まし、頭を持ちあげ時計の数字を見て、まだ起き上がるまでには時間があることを確かめたことが何度もある。あと一時間と思いながら枕に頭を戻すと、夫の体温がふんわりと首に感じられたものだった。
そんな細かいことを今さら何故思い出しているのだろうかと、注意が病棟の廊下から逸れると、ガラス窓に自分の口元が映っているのに気がつく。目鼻は見えない。多分、泣き腫した顔をしているのだろう。水希に見られたら、何と言おうか。
久し振りに泣いた。泣くと、その後、心の表面が天鵞絨になったような気がする。
夫が死んでから、泣けば負けだ、と思い続けてきた。一度泣いてしまったら、それこそ涙に溺れ、心棒がはずれてぐにゃぐにゃになると思っていた。しかし、意外にあっさり涙は止まったし、弱りこんだ気はしていない。やはり二年という歳月が瘡蓋をつくったのかもしれない。それでも、何かがぷつりと途切れた感じは否めなかった。何が途切れたのだろう。それを上手く言葉にすることはできなかったが、真子の生活を危うくひとつに纏めている袋のあちらこちらに穴が開いて、そこから真子自身がちょろちょろと流れ出しているような気分だった。
昏い荒野をとぼとぼと歩き続けるイメージはそのままだ。だが今では、身を切るような痛みは感じず、それよりも、離れた場所から見ている出来事だと思ってしまう。
松葉杖で体を支えていることに疲れて、真子はベッドに戻ろうと向きを変えた。すると水希が持ってきた紙袋が目に入り、見覚えがある木の柄に気がついた。ベッドの縁に腰かけると、松葉杖の先に紙袋の手提げ紐をひっかけて引き寄せた。中に入っていたのは、真子の父が使っていた鉈だった。水希に片付けてくれと頼んだのは覚えているが、持ってきてくれとは言ってない。新聞紙でくるんであった刃の部分に、固まった血が大量についている。(野犬の血だ。)真子は直感した。孫娘は、野犬に襲われたと言っていたが、どうやって切り抜けてきたかを詳しくは話していなかった。鉈にこれだけの血がついているということは、彼女はこの鉈で野犬を殺して危地を脱したのだ。水希がその鉈をここまで、真子のところへまで持ってきた理由も、真子は彼方を見通すように理解した。何故なら、この鉈は、小松秋男の体に切り付けられ、あの男の血を吸った刃なのだから。孫娘自身はそれを知りはしないのだろうけれど。
すべてが、ある一点に向かって集まりつつある。それが今始まっている。一番不思議なのは、こんな平凡な女である自分に、異様な出来事に対する予感があるということだった。しかし、五十年以上の間、あの、昏い荒野を歩き続ける一人きりのイメージに、常に寄り添っていたのは、あるいは音楽のように背景に鳴り響いていたのは、これがいつか起るという予感だったのだ。
窓の外は、藍色を濃くしている。松葉杖でなんとか立ちあがり、さんざん苦労して窓辺に近づいた真子は、向うにある病棟の廊下を見ていた。館内放送の後、廊下を右往左往する人の数が増えている。避難が始まっているのだ。それでも、それほど沢山の入院患者がいるわけではないので、どこかのんびりした感じが漂っていた。
若い医者が、カルテのようなファイルを腕一杯に抱えて行く。患者が患者の車椅子を押して通る。ダンボール箱を抱え、上体が少し後ろに反った看護師の口がぱくぱくと動く。「失礼します。」と言っているのだろう。その看護師は車椅子を追い越して行った。車椅子の人たちも退場し、そして、人の姿が一時絶える。
宵闇の毒が深まっていく空を背景に、病棟の廊下は、出演者を待つ舞台に似て、騒がしそうに浮き上がって見えながら、物悲しさが漂っていた。
その光の加減に真子は、夫が使っていた寝室の目覚し時計を思い出した。それは、横にした百科事典の一巻のような目覚まし時計で、電気で動く機械式だった。前面に窓があり、そこから数字の描いてある小さな板が見えていた。その板は、歯車で回転する軸にぐるりと取りつけてあって、ロロデックスのように、軸が回転すると奥から迫り上がって来た板がぱたぱたと倒れて、時間を表わす数字が変るようになっていた。その窓は、暗闇でも時間が読めるように小さな橙色の照明がつき、それが仕掛け人形の舞台を覗きこんでいる気分にさせるのであった。夫はその目覚し時計を寝室の枕元に置いて、四十年は使っていた。夫が勤めている間は、真子もその時計を使っていた。明け方一度目を覚まし、頭を持ちあげ時計の数字を見て、まだ起き上がるまでには時間があることを確かめたことが何度もある。あと一時間と思いながら枕に頭を戻すと、夫の体温がふんわりと首に感じられたものだった。
そんな細かいことを今さら何故思い出しているのだろうかと、注意が病棟の廊下から逸れると、ガラス窓に自分の口元が映っているのに気がつく。目鼻は見えない。多分、泣き腫した顔をしているのだろう。水希に見られたら、何と言おうか。
久し振りに泣いた。泣くと、その後、心の表面が天鵞絨になったような気がする。
夫が死んでから、泣けば負けだ、と思い続けてきた。一度泣いてしまったら、それこそ涙に溺れ、心棒がはずれてぐにゃぐにゃになると思っていた。しかし、意外にあっさり涙は止まったし、弱りこんだ気はしていない。やはり二年という歳月が瘡蓋をつくったのかもしれない。それでも、何かがぷつりと途切れた感じは否めなかった。何が途切れたのだろう。それを上手く言葉にすることはできなかったが、真子の生活を危うくひとつに纏めている袋のあちらこちらに穴が開いて、そこから真子自身がちょろちょろと流れ出しているような気分だった。
昏い荒野をとぼとぼと歩き続けるイメージはそのままだ。だが今では、身を切るような痛みは感じず、それよりも、離れた場所から見ている出来事だと思ってしまう。
松葉杖で体を支えていることに疲れて、真子はベッドに戻ろうと向きを変えた。すると水希が持ってきた紙袋が目に入り、見覚えがある木の柄に気がついた。ベッドの縁に腰かけると、松葉杖の先に紙袋の手提げ紐をひっかけて引き寄せた。中に入っていたのは、真子の父が使っていた鉈だった。水希に片付けてくれと頼んだのは覚えているが、持ってきてくれとは言ってない。新聞紙でくるんであった刃の部分に、固まった血が大量についている。(野犬の血だ。)真子は直感した。孫娘は、野犬に襲われたと言っていたが、どうやって切り抜けてきたかを詳しくは話していなかった。鉈にこれだけの血がついているということは、彼女はこの鉈で野犬を殺して危地を脱したのだ。水希がその鉈をここまで、真子のところへまで持ってきた理由も、真子は彼方を見通すように理解した。何故なら、この鉈は、小松秋男の体に切り付けられ、あの男の血を吸った刃なのだから。孫娘自身はそれを知りはしないのだろうけれど。
すべてが、ある一点に向かって集まりつつある。それが今始まっている。一番不思議なのは、こんな平凡な女である自分に、異様な出来事に対する予感があるということだった。しかし、五十年以上の間、あの、昏い荒野を歩き続ける一人きりのイメージに、常に寄り添っていたのは、あるいは音楽のように背景に鳴り響いていたのは、これがいつか起るという予感だったのだ。
2010-04-23 07:08
祖母と孫娘〈九〉 [小さな話]
〈九〉
病院が揺れるのが見えた。
そう思った時水希は、自分を取り戻した。いつの間にか深津市立総合病院の門前に立っている。首が垂れるほどの疲れを感じる。左手には紙袋とバッグをぶらさげていて、紙袋の中にはかなり太い木の柄の先を細長く新聞紙でくるんだものが入っている。
どうやってここまで来たのか、記憶がはっきりしない。祖母の頼みで木裏町の家へ行って、掃除をしていたら野犬の群れに…、そこまで記憶をたどると、すぐ近くに犬の熱い息が感じられたような気がして、水希はびくんとした。四方を犬の狂った吠え声で囲まれ、二頭の兇暴な野犬に襲われた恐怖がまざまざと甦る。膝がこまかく震えて、今この場に座りこみそうだった。野犬の鋭い牙の恐しさもさることながら、犬達と対峙して自分が取った行動の凄まじさが胃を収縮させ、目の前が暗くなってくる気がした。その後の記憶がぼんやりしている。自分が何をして、どうやって祖母の家を出、列車に乗り、駅から病院まで来たのか、細かく思い出すことができない。その間は、まるでビデオカメラのスイッチが切られて、省略されてしまったようだった。
あたりは、夕暮れがあるということをようやく思い出して、病院の外壁にそそぐ夏の光が色調を橙色に変えだしていた。
この病院の外観は、病院であることを隠したがっている。全館平屋で、その上、高さを強調しないデザインが採られているし、窓という窓が壁に埋まり込んで、自ら塞がろうとしているように見える。戦前に建てられたせいか、細部は重々しく、必要以上に頑丈な感じだ。車寄せ周りの植え込みや、門扉の左右に立つ樹の影は深い。そのため、病院の敷地が外から隔絶されている印象を与える。一方で、建物の近くには、樹に嫌われて緑がなく、そのせいで病院が横に平べったくだだ広いのがすぐに見てとれる。
まるで、コンクリートでできた、冗談のように大きい蓋だ、と水希は思った。
その馬鹿でかい蓋と十六歳の女の子が向いあっていた。
女の子は疲れた様子で、一見異様な身なりをしている。シャツチュニックのあちらこちらに血の跡が、茶色の染みを広げていた。後ろは、大きく裂けたのをとりあえず繕ってあった。右腕にタオルを縛りつけて止血しているのだが、ようやく止まったようで、滲んだ血の色がまだ生々しい。頬や手足など、外から見える体の各所が傷だらけだ。肩までの髪は、汗と埃をシャワーで流したようには見えるけれども、もつれて乱れ、ばさりと目にかかって、整っているとは言い難い。何事か、只ならぬ災難がこの少女の身に起ったのは誰の目にも明らかだった。しかし、少女のまなざし、己の身なりに気が廻っていない、強く黒い瞳が、他人のおせっかいを寄せつけず、それでそんな格好のままここまでたどり着くことができたらしい。
女の子、つまり十六歳の水希の目には、病院が確かにぐらぐらと揺れるのが見えた。
外から目に見えて判るほど揺れているなら、中はさぞかし大変なことになっているのでは、と水希は祖母の事を心配して、受付ロビーへ入っていった。
病院の中はまさに騒然としていて、玄関から入ってきた異様な身なりの女の子のことなど、誰も気にかけることはなかった。
正面奥の廊下では、点滴スタンドを従えた患者が三人いて、中の一人が指差す天井の亀裂を見ていた。
ロビーのかなりな部分を、長椅子の列が占めている。受付と会計のカウンターに向って整列し、老人達がバスにでも乗っているように座っている。午前中ならほぼ満席だが、今は暮れ方で、空席が目立つ。それでも、帰らずにいる人が多く、いつもならもっとお行儀がよいのに、身振り手振り大きく語る男の周りに集ったり、落ち着きなく首を廻らせたり、意味もなく立ったり座ったりを繰り返す者もいた。覚束無い指先で携帯電話を開いている年寄りたちもいて、彼等はまるで自分の位牌を覗きこみ、そこに記された戒名に魅入られている人々だった。
そのなかで病院の職員の動きは、際だって素早い。水希の目の前を看護師が小走りに通り過ぎ、手を高く挙げておいでおいでと振って、向うにいる別の看護師を呼び止め、一緒に並んで去っていった。
白衣の医者がロビーの一角を斜めに横切ると、気づいた老人達がお喋りを止めて、じっとその後ろ姿を見送った。ある老婆は、長椅子の端に座って、看護師が通り過ぎる度に手を差し出して呼び止めようとするのだが、誰にも相手にされず、不安そうな潤んだ目を水希の方に向けた。
明らかに事務方の職員だと判る男達が、バラバラと通り過ぎていく。彼等は、ネクタイを締め、サンダル履きで、ロビーの老人達と目を合せないようにした顏に困惑と緊張感が読み取れる。おそらく、この異常事態に非常呼集がかかったのだ。これから会議が開かれ、対策が話し合われるのだろう。
水希は、ロビーの隅をゆっくり迂回して、真子の病室を目指した。
ロビーを挟んだ向こう側から始まる廊下の奥に、水希を見つめる視線を感じた。乱れた銀髪の女の患者がいたような気がしたが、誰もいなかった。その廊下の奥は、ロビーの騒がしさが馬鹿げて見えるほど、空虚に静まりかえっていた。
病院が揺れるのが見えた。
そう思った時水希は、自分を取り戻した。いつの間にか深津市立総合病院の門前に立っている。首が垂れるほどの疲れを感じる。左手には紙袋とバッグをぶらさげていて、紙袋の中にはかなり太い木の柄の先を細長く新聞紙でくるんだものが入っている。
どうやってここまで来たのか、記憶がはっきりしない。祖母の頼みで木裏町の家へ行って、掃除をしていたら野犬の群れに…、そこまで記憶をたどると、すぐ近くに犬の熱い息が感じられたような気がして、水希はびくんとした。四方を犬の狂った吠え声で囲まれ、二頭の兇暴な野犬に襲われた恐怖がまざまざと甦る。膝がこまかく震えて、今この場に座りこみそうだった。野犬の鋭い牙の恐しさもさることながら、犬達と対峙して自分が取った行動の凄まじさが胃を収縮させ、目の前が暗くなってくる気がした。その後の記憶がぼんやりしている。自分が何をして、どうやって祖母の家を出、列車に乗り、駅から病院まで来たのか、細かく思い出すことができない。その間は、まるでビデオカメラのスイッチが切られて、省略されてしまったようだった。
あたりは、夕暮れがあるということをようやく思い出して、病院の外壁にそそぐ夏の光が色調を橙色に変えだしていた。
この病院の外観は、病院であることを隠したがっている。全館平屋で、その上、高さを強調しないデザインが採られているし、窓という窓が壁に埋まり込んで、自ら塞がろうとしているように見える。戦前に建てられたせいか、細部は重々しく、必要以上に頑丈な感じだ。車寄せ周りの植え込みや、門扉の左右に立つ樹の影は深い。そのため、病院の敷地が外から隔絶されている印象を与える。一方で、建物の近くには、樹に嫌われて緑がなく、そのせいで病院が横に平べったくだだ広いのがすぐに見てとれる。
まるで、コンクリートでできた、冗談のように大きい蓋だ、と水希は思った。
その馬鹿でかい蓋と十六歳の女の子が向いあっていた。
女の子は疲れた様子で、一見異様な身なりをしている。シャツチュニックのあちらこちらに血の跡が、茶色の染みを広げていた。後ろは、大きく裂けたのをとりあえず繕ってあった。右腕にタオルを縛りつけて止血しているのだが、ようやく止まったようで、滲んだ血の色がまだ生々しい。頬や手足など、外から見える体の各所が傷だらけだ。肩までの髪は、汗と埃をシャワーで流したようには見えるけれども、もつれて乱れ、ばさりと目にかかって、整っているとは言い難い。何事か、只ならぬ災難がこの少女の身に起ったのは誰の目にも明らかだった。しかし、少女のまなざし、己の身なりに気が廻っていない、強く黒い瞳が、他人のおせっかいを寄せつけず、それでそんな格好のままここまでたどり着くことができたらしい。
女の子、つまり十六歳の水希の目には、病院が確かにぐらぐらと揺れるのが見えた。
外から目に見えて判るほど揺れているなら、中はさぞかし大変なことになっているのでは、と水希は祖母の事を心配して、受付ロビーへ入っていった。
病院の中はまさに騒然としていて、玄関から入ってきた異様な身なりの女の子のことなど、誰も気にかけることはなかった。
正面奥の廊下では、点滴スタンドを従えた患者が三人いて、中の一人が指差す天井の亀裂を見ていた。
ロビーのかなりな部分を、長椅子の列が占めている。受付と会計のカウンターに向って整列し、老人達がバスにでも乗っているように座っている。午前中ならほぼ満席だが、今は暮れ方で、空席が目立つ。それでも、帰らずにいる人が多く、いつもならもっとお行儀がよいのに、身振り手振り大きく語る男の周りに集ったり、落ち着きなく首を廻らせたり、意味もなく立ったり座ったりを繰り返す者もいた。覚束無い指先で携帯電話を開いている年寄りたちもいて、彼等はまるで自分の位牌を覗きこみ、そこに記された戒名に魅入られている人々だった。
そのなかで病院の職員の動きは、際だって素早い。水希の目の前を看護師が小走りに通り過ぎ、手を高く挙げておいでおいでと振って、向うにいる別の看護師を呼び止め、一緒に並んで去っていった。
白衣の医者がロビーの一角を斜めに横切ると、気づいた老人達がお喋りを止めて、じっとその後ろ姿を見送った。ある老婆は、長椅子の端に座って、看護師が通り過ぎる度に手を差し出して呼び止めようとするのだが、誰にも相手にされず、不安そうな潤んだ目を水希の方に向けた。
明らかに事務方の職員だと判る男達が、バラバラと通り過ぎていく。彼等は、ネクタイを締め、サンダル履きで、ロビーの老人達と目を合せないようにした顏に困惑と緊張感が読み取れる。おそらく、この異常事態に非常呼集がかかったのだ。これから会議が開かれ、対策が話し合われるのだろう。
水希は、ロビーの隅をゆっくり迂回して、真子の病室を目指した。
ロビーを挟んだ向こう側から始まる廊下の奥に、水希を見つめる視線を感じた。乱れた銀髪の女の患者がいたような気がしたが、誰もいなかった。その廊下の奥は、ロビーの騒がしさが馬鹿げて見えるほど、空虚に静まりかえっていた。
2010-04-22 07:36
祖母と孫娘〈八〉 [小さな話]
〈八〉
ちょっと調理室へ行ってみよう、と柳田は思った。森川美智子の死について、情報が欲しかったのである。あの女が死ぬなんて、全然信じられなかった。柳田が立ち上がると、寺本が口を開いた。
「おいおい、どこへ行くとですか?」
「調理室へ。ほら、森川さんの事ば聞こうと思って。」
「ほお。そうですか。俺は、また、おかしな婆さんと乳繰りあいに行くのかと思いましたよ。」
柳田は動揺した。
(こいつ、どこまで知ってるんだ?)
「何のことかな?アッハッハッ。冗談上手かね。」
「勘違いならよかばってん。」監視モニターの光が眼鏡に反射して、寺本の表情が読めない。
「十分くらいしたら、戻る。」寺本の返事は無かった。
柳田は、久美子と居るところを誰かに見られたのか、と考えた。しかし、いつも久美子を痛めつけるときは、周りに人がいないことを確認している。誰かに見られることはないはずだ。監視カメラは言うまでもない。とすると、久美子本人が話したのか。柳田の顏が強張った。
(あの女、喋れないふりをして、本当は喋れるのか?俺を騙してるのか?俺を馬鹿にしてるのか?)怒りが柳田の頭をぎりぎりと締めつけた。(ふざけた真似ができんごて、あの女にとどめば刺してやらんばいかんね。)久美子にとどめを刺すという考えは、柳田を面白がらせた。どんな風にやるかと、手がむずむずしてきた。しかし、その興奮も、久美子への暴力が人に感づかれているかもしれないと思うと、冷水を浴びせかけられたように萎びてしまう。懲罰の不安が柳田を焦らせた。(しばらくの間、大人しくしていたほうがよかろうね。ほとぼりが冷めるまで、久美子には近付かんでおこう。その間に誰がどこまで知っているのか、調べてやろう。寺本の様子からするに、俺が久美子を痛めつけとるとは思っとらんようだ。他に知っとるやつがいるとしても、同じようなものだろう。そうしたら、それは放っておけばいい。後は、久美子の奴が喋れるのかどうかを確かめんとな。喋れるとしたら、とどめの刺し方も変ろう。ふん、誰にも邪魔はさせんばい。被害者はこの俺だ。ひどい目にあった者が、その復讐をして何が悪いとや。寺本達ごときに正義がわかるわけない。久美子は俺のものだ。俺が自由にする権利がある。)
柳田にとっては、損失の賠償が正義で、その担保が十五年以上に及んだ久美子との結婚生活であった。だが、十五年間どうやって暮らしたのか、語ることはできなかった。久美子がどんな顏をしていたか、どんな会話をしたか、二人でどこへ行ったか、何を楽しみとし、何を願って日々を送ったか、それらが一切記憶に残っていない。夜、布団に入るとき、ちょっとシーツがひんやりする感覚だけが、何故か甦る。柳田自身は、十五年間の記憶が空っぽであることついて何の感慨もない。(月日が過ぎるのは早い。光陰矢の如し、たい。)と、常套句を吐いて事足れりとしている。
しかし、そんな無に等しい年月でも、柳田にとっては権利を主張できる担保だと思えるのである。さらに小林久美子と結婚していたということは、久美子に対して自分の「実力」を行使する権利も保証する、と思えた。つまり柳田にとって、結婚というのは他人を自分のものにする、世の中公認のお買い物だったのである。
そのお買い物は、手酷いやり方で破綻した。
それを償わせて何が悪い。俺が被害者で、その被害を補償してもらうんだ。柳田はこう考えた。久美子に対する暴力については、人の与り知らぬ自分だけの補償方法、これでも控え目な、ずい分と譲歩したやり方だと思って、罪の意識は少しも無かった。暴力が自分に与える興奮についても、柳田の目には見えないのであった。
だから柳田にとって久美子を痛めつけるのは当然のことをやっているだけだが、問題は、(寺本も含めて)他の奴等だった。深津市に居場所がなかったように、奴等は柳田のやっていることを目敏く見つけだし、難癖をつけて、糾弾し、罰しようとするかも知れない。何故彼等に柳田を懲罰できるのか、説明はできなかったけれども、それが世間というものなのだ、と柳田は自分自身を納得させようとした。
(でもな、そうそう良いようにはさせんちゅうことばい。寺本の奴を見てみろ。あいつ等は大方間抜けときとる。そこが付け目たい。世間の奴等をだしぬいて、当然の権利を行使させてもらおう。)
そこまで考えると、ようやく気が晴れてきた。すると、久美子にとどめを刺す事だけが残った。また手がむずむずしてくる。
(虫けらのようなあの女に、どうして俺を騙すなんてことができるのか。ふざけた話ばい。最近は、殴っても、なんか汚らしいような気がする。手が汚れそうだ。あんなにボロボロになったら、そろそろお払い箱ばいね。)
その時、ちょうど駐車場へ向う廊下を通り過ぎ、駐車場のドアが閉まって、誰かが廊下を渡ったのが見えた。見覚えのある背格好だった。
ちょっと調理室へ行ってみよう、と柳田は思った。森川美智子の死について、情報が欲しかったのである。あの女が死ぬなんて、全然信じられなかった。柳田が立ち上がると、寺本が口を開いた。
「おいおい、どこへ行くとですか?」
「調理室へ。ほら、森川さんの事ば聞こうと思って。」
「ほお。そうですか。俺は、また、おかしな婆さんと乳繰りあいに行くのかと思いましたよ。」
柳田は動揺した。
(こいつ、どこまで知ってるんだ?)
「何のことかな?アッハッハッ。冗談上手かね。」
「勘違いならよかばってん。」監視モニターの光が眼鏡に反射して、寺本の表情が読めない。
「十分くらいしたら、戻る。」寺本の返事は無かった。
柳田は、久美子と居るところを誰かに見られたのか、と考えた。しかし、いつも久美子を痛めつけるときは、周りに人がいないことを確認している。誰かに見られることはないはずだ。監視カメラは言うまでもない。とすると、久美子本人が話したのか。柳田の顏が強張った。
(あの女、喋れないふりをして、本当は喋れるのか?俺を騙してるのか?俺を馬鹿にしてるのか?)怒りが柳田の頭をぎりぎりと締めつけた。(ふざけた真似ができんごて、あの女にとどめば刺してやらんばいかんね。)久美子にとどめを刺すという考えは、柳田を面白がらせた。どんな風にやるかと、手がむずむずしてきた。しかし、その興奮も、久美子への暴力が人に感づかれているかもしれないと思うと、冷水を浴びせかけられたように萎びてしまう。懲罰の不安が柳田を焦らせた。(しばらくの間、大人しくしていたほうがよかろうね。ほとぼりが冷めるまで、久美子には近付かんでおこう。その間に誰がどこまで知っているのか、調べてやろう。寺本の様子からするに、俺が久美子を痛めつけとるとは思っとらんようだ。他に知っとるやつがいるとしても、同じようなものだろう。そうしたら、それは放っておけばいい。後は、久美子の奴が喋れるのかどうかを確かめんとな。喋れるとしたら、とどめの刺し方も変ろう。ふん、誰にも邪魔はさせんばい。被害者はこの俺だ。ひどい目にあった者が、その復讐をして何が悪いとや。寺本達ごときに正義がわかるわけない。久美子は俺のものだ。俺が自由にする権利がある。)
柳田にとっては、損失の賠償が正義で、その担保が十五年以上に及んだ久美子との結婚生活であった。だが、十五年間どうやって暮らしたのか、語ることはできなかった。久美子がどんな顏をしていたか、どんな会話をしたか、二人でどこへ行ったか、何を楽しみとし、何を願って日々を送ったか、それらが一切記憶に残っていない。夜、布団に入るとき、ちょっとシーツがひんやりする感覚だけが、何故か甦る。柳田自身は、十五年間の記憶が空っぽであることついて何の感慨もない。(月日が過ぎるのは早い。光陰矢の如し、たい。)と、常套句を吐いて事足れりとしている。
しかし、そんな無に等しい年月でも、柳田にとっては権利を主張できる担保だと思えるのである。さらに小林久美子と結婚していたということは、久美子に対して自分の「実力」を行使する権利も保証する、と思えた。つまり柳田にとって、結婚というのは他人を自分のものにする、世の中公認のお買い物だったのである。
そのお買い物は、手酷いやり方で破綻した。
それを償わせて何が悪い。俺が被害者で、その被害を補償してもらうんだ。柳田はこう考えた。久美子に対する暴力については、人の与り知らぬ自分だけの補償方法、これでも控え目な、ずい分と譲歩したやり方だと思って、罪の意識は少しも無かった。暴力が自分に与える興奮についても、柳田の目には見えないのであった。
だから柳田にとって久美子を痛めつけるのは当然のことをやっているだけだが、問題は、(寺本も含めて)他の奴等だった。深津市に居場所がなかったように、奴等は柳田のやっていることを目敏く見つけだし、難癖をつけて、糾弾し、罰しようとするかも知れない。何故彼等に柳田を懲罰できるのか、説明はできなかったけれども、それが世間というものなのだ、と柳田は自分自身を納得させようとした。
(でもな、そうそう良いようにはさせんちゅうことばい。寺本の奴を見てみろ。あいつ等は大方間抜けときとる。そこが付け目たい。世間の奴等をだしぬいて、当然の権利を行使させてもらおう。)
そこまで考えると、ようやく気が晴れてきた。すると、久美子にとどめを刺す事だけが残った。また手がむずむずしてくる。
(虫けらのようなあの女に、どうして俺を騙すなんてことができるのか。ふざけた話ばい。最近は、殴っても、なんか汚らしいような気がする。手が汚れそうだ。あんなにボロボロになったら、そろそろお払い箱ばいね。)
その時、ちょうど駐車場へ向う廊下を通り過ぎ、駐車場のドアが閉まって、誰かが廊下を渡ったのが見えた。見覚えのある背格好だった。
2010-04-21 07:35
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